体と心
――精神面のケアが大切なのはわかるのですが、私自身は父のケアをしていくなかでどうしても、体の状態や病気の症状ばかりに気をとられてしまいます。さっきの話のように救急車を呼ぶのを留保することは、私にはちょっとできそうにありません。
もちろん私としては命を優先させる選択をしたいのですが、本人の意識がまだ明晰で救急車を拒むような事態では、そう単純ではなくなります。西洋医学の基本には生命が続いていくことを最優先する思想がありますが、それを無批判に「第一義」とするのにはやはり躊躇します。むしろ、そういう考え方が私たちの常識になっていることを疑ってみるのも大切ではないでしょうか。
――もしかすると尊厳死や安楽死といったテーマに通じるものがあるかもしれませんが、先生がそこまで内面のケアを重視するのはどうしてですか。
母の場合は精神だけじゃなく、もちろん体もしんどいんです。というより、精神の苦しさは体の状態から来ていると言った方がいい。
パーキンソン病の症状で常に体が震えてしまい、自分の意思ではその震えを止めることができない。すると、自分の体でありながらコントロール不能なもの、自分の外部にあるもののように思えてくるんだと思います。そういう体で生きることを余儀なくされた人って、ある意味では生き死にの次元を超えてしまっているんだと思います。健常者には到底理解しえない状態が、ずっと続いているわけです。

パーキンソン病って治らないんです、残念ながら。ガンはまだまだ治療困難だと思いますが、最近、治る確率が以前より高くなってきたと言いますよね。なので、母の病気がもしもガンだったら、こんな治療を試してみようとか、まず体を治療することを考えようとなるでしょうし、もしそういう本を書くとしたら、母と一緒に医療の冒険に出かける、みたいな内容にしていたと思います。
『ゆっくり歩く』が内面の、精神の話になったのは、そもそも病気の治癒の可能性が絶たれているからなんですよね。治癒の可能性が絶たれた人にとっては、もう、精神状態がすべてなんです。
――なるほど。
もちろん病院には行っています。診察にも毎回立ち会いますが、母がお医者さんに伝えることはいつも同じです。震えが悪化した、お薬を飲んでも安定しない、夜眠れない。この3つをしつこいくらい繰り返します。
でも、母を診てくれる今のお医者さんはその話を毎回ちゃんと聴いて、やさしく説明してくれるんです。処方する薬が前回と同じでも、前も言ったでしょなんて言わずに、丁寧に繰り返してくれる。ほんとうに頭が下がります。
「朝、これを飲んだらしばらく落ち着くと思います。で、お昼も飲みますよね。でも、4時ごろにものすごく震えて止まらないということだったから、この4時のお薬をもうひとつ追加したんですよ。覚えてますか」みたいな。だから、これは絶対に飲みましょうねと、微笑みながら語りかけてくれます。
おかげで母は、決められた時間に薬を飲む習慣をすごく大事にしているし、先生に言われたことによって、その薬にすがることができるんです。これがもしも「前回と同じです」とだけ言われて処方されたとしたら、はたして母はその薬にすがることができるのかなって。
薬が同じなら、体に及ぼす作用は一緒です。薬だけがほしいのであれば、どう渡されてもいいのかもしれません。でも、患者の求めているものが薬プラス「ケア」なのだとしたら、それを処方できない医師は失格だと私は思います。その点、母の担当医師は対話を通じて、精神に働きかけてくれているんです。
死の物語を語る
母は私に、この苦しさはあなたにはわからないと思うと言います。残された生は、もはや健全なものにはなりえない。理想とする生活はまったく送れず、苦しみだけを与えられた状況で生かされ続ける。それがどれだけ苦しいか、同じ経験をしてない人にはわからないだろうと。
母が内面に抱え込んでいる苦しみは恐らく壮絶で、これは言葉にできないんですよ。当然私にもできない。だから母は、「早く死にたい」と言ってしまう。そうとしか表現できないんだと思います。そんな母とどんな対話が可能なのかということを、ずっと模索してきました。
――死にたいとしか表現できない苦しさ……。それはとてもわかるとは言えないし、実際わからないです。
そんな人にね、「頑張ろうよ」とか「元気出してよ」なんて言ってもよけいにつらいだけなのかなと。母にとって一番興味のある話は「死」なのだと思います。死をどう捉えるかということなんです。
だから私は母が死にたいって言ったら、知っている限りの死にまつわる物語を探します。失敗するととんでもない方向に行ってしまうので、慎重に、信頼できる作家や映画監督の作品を選ぶんですけど、ボルヘスの話をしたときには母の目が輝きを増していくのがはっきりとわかりました。

これはゲシュタポに捕らえられて銃殺されることになった劇作家が、銃殺の直前、神によって主観的な時間が与えられ、書きかけの戯曲を1年かけて書きあげるという話なんですけど、死を目前にしてもしぶとく生きようとする執念が、母の心を打ったのかもしれません。
『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』も良かったですね。スコット・フィッツジェラルドの小説なんですけど、ブラッド・ピットが主演した映画も素晴らしいです。
――映画もあるんですね、見てみます。
母が家に来ていた時、とにかく早く死にたいとまた言い始めたので、今回はベンジャミン・バトンの話をするね、となりました。これは、70代の体で生まれて、歳を重ねるごとに若返っていく男の物語なんです。そのときにこう話しました。
「ベンジャミン・バトンという人、私たちには想像もできない苦しみを味わっているんだよね。お母さんも震えは大きくなっているし、思うように動けないのは本当に辛いと思う。でもね、いまお母さんがいる介護施設のまわりの人もそうだし、お母さんの妹もそうだし、お母さんと同じくらいの年齢でしょ。3歳下とか、5歳上とか。体の状態はそれぞれだけど、少しずついっしょに歳をとっていってる。一日ごとに年老いていく時間を、みんなといっしょに過ごせているって素晴らしいと思う。」
それを聞いた母は、その小説を読みたい、もしあるなら映画をぜひ見てみたい、と言いました。確かに、私が語るより、ブラッド・ピットに語ってもらった方がいいなって。今だとNetflixで見られるので、その日に二人で一緒に見ました。映画を見終えたあと、母といろんな話をしました。
ベンジャミン・バトンはずっと孤独だということ。リュウマチを抱えて生まれてきて、どんどん健康になっていく。そんな人は他に誰もいないということ。恋をしても相手はどんどん年老いていき、自分は少年になっていく。同じようには死ねないということ。母は、そういう話をしながら泣いていました。

物語にはこういう力があると思うんです。さっきも言った通り、薬はもちろん大事です。パーキンソン病はドーパミンが減少する病気なので、物質的にそれを改善することが必要なのは間違いない。それは薬にまかせます。
でも、薬が多少効いたとしても、完全に振戦(震え)を抑え込めるわけではない。日々の生活への不安や、死にたいという気持ちは残る。だから、そういう心の問題に働きかける「薬」もいるんです。そのひとつに、文学があると思うんですよ。
――私もなるべく父と話すようにはしているのですが、先生のように文学を語れるわけでもないので、どんな話をするのがいいかはいつも迷います。
昔話とかでもいいのではないでしょうか。文学の話は母が乗ってきたときにしかできないので、私も大概は昔話をしています。母が結婚する前のことだったり、子育てに手を焼いていた時のことだったり……。とにかく若くて、元気で、人生がマックスだった時のことを話してもらうだけでいいんです。そうすると母は一瞬、その時の自分を取り戻すんですよ。
『ゆっくり歩く』にも書きましたが、私が6歳で姉が7歳の時、母は私たちを連れてアメリカに行き、3人で1年半暮らしました。父は日本に残って塾の経営をしていましたが、英語教材を開発するというので、自分の子どもをアメリカで生活させて、その言語能力の進歩を観察するという目論見だったようです。母は英語も話せないのに、私たちを異国で生き延びさせなくてはならなかったんです。
その頃の話を母に振ると、もう脳が入れ替わったみたいに生き生きと話し出します。パーキンソン病で認知が衰えているとは思えないくらい、よどみなく言葉が出てくる。その姿を見るのはね、娘としてはやっぱり嬉しいんですよ。
年齢を重ねると、年相応のしゃべり方とか考え方しかできないって思いがちですよね、私たちって。でも実は、ぜんぜんそんなことはない。ちょっとしたきっかけがあれば、いつだって昔の自分に戻れるんです。そのことを教えられました。
