ケアラーを演じる
――小説ってある意味嘘というか、フィクションじゃないですか。ボルヘスの話の劇作家にしても、ベンジャミン・バトンにしても、現実には存在しないわけですよね。でもそれが現実世界の私たちに生きる力を賦活するというのは、改めてすごいことだなって思います。
最初の方で触れたオスカー・ワイルドに『嘘の衰退』という作品があるんですけど、その中で彼は近代の芸術がリアルを追求しすぎてつまらなくなったと批判しています。芸術は美しい想像や虚構を、つまりは美しい嘘を生み出すべきだと。
近代社会においては嘘は悪いもの、あるいは真実より劣ったものとみなされます。もちろん悪意のある嘘は極力避けるべきでしょう。しかし、私たちはあらゆる事象において、嘘か誠か見極めることを要求されていますよね。
そもそも嘘か、嘘じゃないかって、表裏一体だと思うんです。だからオスカー・ワイルドは、「嘘は悪い」と言い切る近代的な考え方の薄っぺらさに気づいていたと思うんですよ。
ワイルドは29歳の時にコンスタンスという名士の娘と結婚したのですけれど、同性愛者の彼にとってその結婚は「嘘」なわけです。でも、彼女との間に二人の子どもが生まれて、「本当」の家族になっていく。もちろん家族のことも愛していた。じゃあ、どこまでが嘘でどこからが本当なのかと言っても、その線引きなんてできませんよね。

ワイルドにとっては恐らく、「本当の自分」を神格化することは反吐が出るくらい気持ち悪いことだった。何でもありというか、自分は何にでもなりえるんだ。そういうアイデンティティの形成の仕方が、同性愛が罪だった時代に生まれた彼には、必要だったのかもしれません。
――『ケアの倫理とエンパワメント』には、オスカー・ワイルドには演技と「ニセモノ」こそが人間の本質だという考えがあると書かれていますね。
それはケアにも通じることだと思います。オスカー・ワイルドじゃないですけど、私の場合は、本当はせかせか歩きたい近代人です。ただ、母の歩調に合わせて「ゆっくり歩くのが楽しい」という演技をしているうちに、本当に楽しくなったんです。
ケアってある意味で、俳優の仕事と同じだと思うんですよ。俳優はドラマとか映画のなかで誰かの役を任されて、一生懸命その人を演じるわけですよね。でも、そういう努力やスキルって、ケアを含む私たちの実生活にこそ必要なんじゃないかと。だって、自分の内面やその時の感情をそのまま露骨に表出したら、もう喧嘩しかないですよ。
私の場合、たとえば仕事が終わらない、原稿がぜんぜん進まない。本当に腹立たしい。悔しい。そういう時にこそ、母にはやさしい声で話す。自分はしんどい状況だけど、今はお母さんといっしょにいる時間だから、ケアラーを演じる。そのことを自分に課すわけです。
――別の人格というか、ケアラー役の自分にスイッチするみたいな。
そうですね。もしも演じることと素の自分で生きることが融解してしまったら、ケアラーとしての自分が埋没しちゃうと思うんですよ。怒りだったり哀しみだったり、人間はその時々でいろんな感情を抱えて生きているので、それをただぶつけることになってしまう。
ケア労働をされている人はたぶん、大なり小なり演じていると思います、無意識にかもしれないけど。でも、私を含めて一般の人は、娘だから親をとか、嫁だから姑をとか、関係性によってケア実践を求められているだけなので、「娘としての思いを伝えなきゃ」みたいに変な誠実さというか、配慮や思いやりがニョキニョキ出てきてしまう。
だからこそその気持ちが受け止めてもらえないと愚痴を言ったり、腹立たしいと感じたりしてしまう。私も堪忍袋の緒が切れたときには今も母を責めてしまいます。

そこでケア労働者のように演じることができれば、母との間に「役」というワンクッションが入るので、感情が暴発しないのですよね。いちばん怖いのは、こういうふうに私情をはさむと暴力的になりやすいってことなんです。「私はこれだけやっているのに、どうしてわかってくれないんだろう」みたいな気持ちになってしまいます。
自分は徹底的にケアする人として、今ここにいる。そういう役を演じる意識をもつと、意外とうまくいくことがあります。
――我慢するのとは違うんですね。
ケア労働って、我慢でなんとかなるようなものではないと思うんです。これは仕事なので、プロとしてやります、みたいな。でも、労働としての意識が強くなりすぎて、逆に母と親子の対話ができなくなってしまうということもあります。だから、ちょうどよい塩梅、そういうケアをしたいんです。
コスパ主義との闘い
病院とか施設で、いまの症状とか過去の疾患についての書類を書くことがあるじゃないですか。母はもう鉛筆を握ることができないので私が代わりに記入するんですけど、これはどう書いてほしい? みたいに、一つ一つ質問をして書いていくんです。
でも、ほとんどの質問に関しては、答えは聞かなくてもわかってるんですよ。だから、いちいち聞かずに書けばそのほうが格段に早いです。もう、本当にそうしたいです。多分15分か20分は節約できるので。でも、その15分20分を節約しない方法を選ぶのが、やっぱりケアなんですよね。だから、イライラするときもありますが、ちゃんと母に聞いて、そうだよねって言って書いています。
――現代のコスパ・タイパ主義とは真逆のやり方ですね。
そうなんです。『ゆっくり歩く』というタイトルも、ケアはコスパありきではできないってことが言いたかったんです。

資本主義社会で求められるのは、効率とスピードです。結果が同じになるなら、少しでも早い方がいいわけです。でも、母といるときにそういう資本主義マインドがちょっとでも出ると、確実に失敗します。わかるんですよね、母には。
母といるときには合わせようとしていますけど、残りの時間、大学にいるときとか家で原稿を書いているときは、ほぼコスパのいい選択しかしてないわけですよ。たとえば、文章を手でタイプするより、コピペした方が早いのは当たり前ですよね。
どっちが時間を節約できるかという価値観のなかで生きている人間が、母といるたとえば3時間だけアンチコスパの生き方を選べているのかと言われると、正直自信はありません。資本主義のなかでトレーニングされた自分に、すぐに戻ってしまう。だから、これは本当に孤独な闘いだなと思っています。
――裏を返せば、効率性やコスパを重視する資本主義の論理がそれだけ強力で、非人間的なものだってことですよね。
そう思います。出版社が開いてくれたイベントで、読者の方がよく「小川さん、そういうものを乗り越えられてよかったですね」と声をかけてくださるんです。資本主義のコスパ的な人格を乗り越えられたという意味ですね。もう苦笑いしか出ないです。だって、私はまったく克服できていないですから。
そういう時は、実はまだできてないんですって言うこともあれば、たじたじしながら、ありがとうございますって言うこともあります。

――なんか、わかります。本に書かれたことって、読者のなかでは完結しちゃってるんですよね。
そうなんです。まあ、本の世界は一旦閉じないと出版できないので完結はしました。ただ、私の人生は終わっていないので……。母も生きているし、ケア実践も続いている。だから、終わったものとして見てほしくないというか、継続し続ける病気の苦しさやケアの営みをどのように伝えていくかというのが、いまの課題の一つですね。
聞き手:加藤哲彦 取材日:2026年4月15日
