正義の原理とケアの倫理

――ご著書『ケアの倫理とエンパワメント』では、ロールズの「正義の原理」と「ケアの倫理」を対比させていますね。私自身は原理や法則といった普遍的なものに惹かれるところがあるのですが、「与えられた状況下で最善の選択をする」というケアの価値観もたしかに重要だと思いました。

 あの本を出したときはロールズのファンが黙っていませんでした。ロールズを槍玉に挙げる意図は全然なかったのですが、結果的にロールズの議論をケアの倫理のアンチテーゼとして出す形になってしまって、申し訳ないことしたと思っています。

 ロールズ自身は貧困層や障害者のことを思って「正しさの原理とは何か」という問いに全力で向き合ってきた人であり、その姿勢は尊敬に値します。でも彼の議論には、おそらく本人も自覚していないマッチョ性が潜んでいる。ロールズのような白人男性の異性愛者、つまりは社会的強者が正義を貫こうとすればするほど、声を上げられずに置いていかれる人は必ずいるということがあると思うんです。

 性暴力などの人権侵害を受けたのに裁判を起こさない人というのは、本当は訴えたいけれども恐怖で声を上げられないとか、そもそも裁判を起こすという発想すら持てなかったりする人なんですよね。そういう人たち、たとえば女性が「正義を語らない」「声を上げない」ということで責められてしまう。

 20世紀後半に起きた第二波フェミニズムは、まさに声を上げることを目指してきたわけですが、現実的には、それができない人、つまり正義とは何かを語れない人の方が、大多数だと思うんですよ。

  そのことを考えると、あえて正義を前に出さないことも必要なんじゃないかと。もちろん正義が大事ではないと言っているわけではないんです。でも、正義だけを語ろうとすると取り残される人が出てくるので、そういうことが起きない対話ってどのようなものだろうと考えて書いたのが、『ケアの倫理とエンパワメント』なんです。

 あの本では「ジェンダー」「セクシュアリティ」「人種の多様性」という3つのテーマが柱になっていますが、それは女性やLGBTQ、非白人といった人たちが、歴史的にも文学的にも、正義とみなされる枠組みから取りこぼされてきたからに他なりません。

――同性愛の罪で捕まったオスカー・ワイルド(1854-1900)の作品も取り上げておられますね。

 彼の時代には同性愛が法的に禁じられていました。つまり逮捕されても「自分はゲイだ」と言えないわけですから、オスカー・ワイルドにとって「正義」は役に立たないどころか、自分を苦しめるものでした。そういった苦しさや不条理をこれまで誰が掬い取ってきたのかを調べてみると、ワイルド自身もそうですが、ほとんどが文学作品を生み出す人たちなんです。

 小説は、もちろん刊行されると公のものとして読まれるわけですけど、書かれている内容自体はすごくパーソナルな、個人的なことですよね。ワイルドの「幸福の王子」は彼が捕まる前、結婚して、普通のヘテロセクシャルな人間として生活していたときの作品ですが、同性愛的なニュアンスを含んだ物語として読むこともできます。つまり、声を上げられなかった時代に、彼自身の内面がそこに投影されていると見ることができるわけです。

  そういう文学の読み方を日本ではほとんど誰もしてこなかったのではと思ったんです。それで、文学を文学のためにではなく、新しい倫理、ケアの倫理を見出すために読み直してみようと思いました。

 そうじゃないフェミニズム

――あの本の序章では、女性が経済的に自立することは当然の権利だと感じつつ、日本の多くの女性がそれとは異なる価値観を持っていることに困惑したと書かれていますね。

 リベラリズムというのは、良くも悪くも自立した個が前提になっています。だから、そこから派生したリベラル・フェミニズムも女性が経済的に自立することを重要視する。その典型がシェリル・サンドバーグ(facebook〈現Meta〉の元COO)が唱えるような「リーン・イン・フェミニズム」だと思うんですが、彼女の書く本は、大多数の女性のためのフェミニズムと言えるんだろうかって疑問に思うんです。

 ベビーシッターを雇えば、子育ても仕事も両立できる、みたいなことを彼女は言うわけですけれど、彼女が雇うベビーシッターにだって子どもがいるかもしれないですよね。その場合、彼女の子どものケアは誰がするんだろうって思うんですよ。ケアのアウトソーシングは個々の資源や資本によって限定されるわけで、誰もがサンドバーグのようにお金や特権を持っているわけではない。

 そんな人に「ほら、私みたいにすればいいのよ」なんて言われたくないだろうし、私自身もそういう声のあげ方はしたくない。じゃあ、そんな特権ありきのフェミニズムではない思想や実践とはどういうものだろうと思ってたどり着いたのがケアの倫理であり、ケアのフェミニズムなんです。

―― ケアの倫理は一部の「選民」ではなく、大多数の人のためのものだと。

 ケアの倫理を提唱したのはアメリカのフェミニストで心理学者のキャロル・ギリガンで、1982年のことです。『もうひとつの声で―心理学の理論とケアの倫理』(川本隆史、山辺恵理子、米典子訳)という金字塔的な本が刊行されました。当初は同じフェミニストの側からも、女性がケアを承認するということは「女が自ずからケアを請け負う」ことを意味して、「従来の家父長制を擁護するものだ」と批判を浴びたのですが、近年はその価値が広く認められ、発展しつつあります。

 ケアとフェミニズムを扱った最近の本としては、シンジア・アルッザ、ティティ・バタチャーリャ、ナンシー・フレイザー著『99%のためのフェミニズム宣言』(惠愛由訳)も世界中でよく読まれています。そこで書かれているのはギリガンの議論とまったく同じではありませんが、ひと握りではなく大多数の女性が共有・実践できるフェミニズムが必要だという点では一致しています。

 政府はいま「すべての女性が輝く社会づくり」みたいなことを言っていて、まるで女性は輝かないと存在さえ許されないような風潮ですけど、別に輝かなくたっていいと思うんですよ。シェリル・サンドバーグになれないからといって、肩身の狭い思いをする必要なんて1ミリもない。

 ここ数年、ありがたいことにいろんな出版社から本を出させてもらっていますが、そこではできうるかぎり「ケア」をキーワードにしています。「なぜケアばかり…」と思う人もいるかもしれませんが、どれだけ主張しても足りないくらい、日本社会にはケアが不足している。女性だけではなく、LGBTQや障害者、外国人、うちの母のように難病を抱えている人にとって絶対に必要なものが何かということを、これからも言っていきたいし、それについて考える人が増えてほしいです。