ネガティヴ・ケイバビリティ

――去年(2025年)刊行された『ゆっくり歩く』では、パーキンソン病になられたお母様とのさまざまなエピソードを書かれていますね。私の父もパーキンソン病なので、身につまされることや参考になるお話がたくさんありました。

 母は去年の12月に24時間体制の施設に移り、ようやく慣れてきたところですけど、その前のサービス付きマンションに3年ほど住んでいたときには本当にいろんなハプニングがありました。いま思えばそこまでパニックにならなくていいことがほとんどなのですが、なかには生死に関わるようなこともありました。

 あるとき母から電話があり、体調が悪い。血圧を測ったら200を超えていると。これは大変だということでいろんな病院に電話をかけ、今から連れていきたいってお願いしたのですが、受け入れてくれないんです。パーキンソン病で血圧が200を超えているような人は、何かあったら責任問題になるからということでした。

 そうなるともう救急車を呼ぶしかないんですが、母は「迷惑をかけるから呼ばないでほしい」って言うんです。子育てに家事に祖母の介護にと、ずっとケアラー人生を送ってきた母にとって、人に迷惑をかけるというのはできれば避けたいんですね。

 もしも母の許可なく救急車を呼んだりしたら、絶交まではいかなくても、しばらくは私を信頼してくれないだろうと思いました。ひとりで勝手に決めてと。そうならないためには、とにかく母に納得してもらう方法を探すしかない。しかも時間との勝負でもありました。

――それはでも、なかなかできることじゃないですよね。まさに命に関わることなので。

 そう。ここでさっきの正義の話に戻るのですが、この場合の正義はすぐに救急車を呼ぶことなんです。命を守ることは絶対的に「正しい」のだから、力のある人、声の大きい人が決めてさっさと行動する。いや、もちろんわかるんです、それは。ただ、本人がイヤだって言っている場合はどうなるのか。そのことが見直されないといけないと思うんですよ。

――うーん、なるほど。

 そのときは結局「#7119」の救急相談センターにかけました。私だけで決めたことでなければ、母も納得するだろうと。電話して症状を伝えたら、すぐに呼んでくださいと。ほっとして母にそう言うと、「きみちゃんと専門家がそう言うなら信じる。あちこち電話をかけてそう言われたのなら、そうなんだろう」と。

 それで、ようやく救急車を呼んで、結果的には検査では異常がみつからず、事なきを得たわけですが、その電話をあちこちにかけまくる時間と労力って、はっきり言って手間がかかるんです。この話を10人にしたらおそらく9人は「最初から呼べば良かったのに」って言うと思います。

 でも、私は面倒くさくても、その残りの一人でいたいんです。時間はかかったけれども決して無駄ではなかった。それは私と母の関係性では必要なプロセスであって、正しいか正しくないかの二元論ではないと思うんです。

 そういうことをこの8年やってきたんですけど、そうするとだんだん「正義って何だろう?」となってきました。正しいことって大体はっきりしていますよね。救急車を呼ぶべき、みたいに。でも、その「べき」では語れないことがあると思うんです。考えたり悩んだりしながらやっと生きている母にとって「正しさ」ありきの世界は、自分の尊厳を奪われたも同然に感じてしまうのだと思います。

――「正義」という言葉にはどこか、有無を言わさない圧力がありますよね。

 何を言いたいかというと、そういう「正しさ」を振りかざされたら、私たちにとって最善の道とは何かという対話が、ぜんぶ無に帰されてしまうということなんです。母と私が大事にしたいのはそのプロセスなのだと思います。誰にでもどこででも適用できる抽象化された正義ではなく、個別具体的な私たちにとって何がいいのかを決めるそのプロセスに意味を、価値を与えたいんです。

 でも、資本主義社会はその私と母との対話に、ゼロのレッテルを貼ると思います。そんなものは無価値だと。

――「いちばん効率のいい行動をとれ」と、資本主義は言うでしょうね。

 それが資本主義社会のモットーなんですよね。そういう規範のようなものが、この社会にはやっぱりあると思います。

 私はいま『群像』で、「ネガティヴ・ケイパビリティ」をテーマにした連載をしています。ネガティヴ・ケイパビリティはイギリスの詩人 ジョン・キーツの概念で、知性や論理的思考によって問題を解決する、あるいは解決したと思うのではなく、そういう状態に心を導くことをあえて留保する能力のことです。私はこれが、ケアをする人には絶対に欠かせないと思うんですよ。

 いまの私と母の関係性では、私の方が強者の立場にあります。なので、私が「これが正解なのでこうしよう」って押し通せば、母は最終的にはそれに従うしかありません。

 そうならないために、私は答えを出すことを留保し、時には自分の口をふさがなければいけない。でも、その苦しさたるや……。本当はこうしてもらいたい、お願いだから救急車を呼ばせてほしい。だって、血圧が200を超えるなんて尋常じゃない。でもそこで踏みとどまり、お互いが納得できる答えを探すことが、ケアの倫理だと思うんです。

偶発性を計画する

 この前、母と甥っ子と3人で近くの公園にお花見に行ったんです、お弁当をつくって。パーキンソン病の人がお花見をするのって、やっぱり大変なんですよ。まず、地べたに座るのが難しい。公園のベンチって、そんなに多くないじゃないですか。なので、行ってみないと母が座れるような場所があるかどうかわからない。もしもなかったら、家に帰ってお弁当を食べるはめになる。そういうリスクを背負って、私たちはお花見に行くんです。

 いざ行ってみると、公園の入り口に低い塀みたいなのがあって、ここにビニールシートを敷けばお母さんも座れそうだね、と。そこから1、2メートル離れたところは芝生の斜面になっていて、真後ろにはちゃんと桜もある。ここいいじゃんということで、母は塀に、私と甥っ子は芝生に座ってお弁当を食べようとしたら、母が言うんです。私もそっちがいいって。

 これは偶発的な事態ではあるんですけど、10%くらいは「そう言うかも」って予想しているんですよ。でも、最初から「お母さんも芝生に座んなよ」って言ったら、絶対にイヤだってなる。この感じ、わかります?

――よくわかります。

 まずはお母さんはここ、私たちは芝生って言いながらも、芝生は可能性を秘めている。お母さんが自発的に来てくれたら3人並んで座れるからいいんだけど、私からは言わない。で、いざ私と甥っ子が芝生に座るとちょっとうらやましい気持ちが出てきて、「あら、そっちの方がいいわね」って。

 芝生だからって、座り心地はぜんぜん良くないんですよ。足はこわばるし、姿勢も安定しない。お茶を置く場所もないから、普通だったら嫌がるんですよ。でも、その時はうらやましいという気持ちが勝った。そしたら母は我慢するんですよ。多少不自由でも、自分から進んで、私たち二人と一緒に芝生で食べるってなったんです。

――自分で決めてもらうってことが大事なんですね。

 そうなんです。偶発性と自発性がケアのすべてだってことを、私はこの8年間で学びました。塀の方が座りやすいから絶対こっちの方がいいんだけど、芝生だったら3人で座れる。でもそれは私が決めるんじゃなく、母が自分で行きたいと思わないと来させてはいけない。つまり、いろんな事態を想定しつつ、ぜんぶ偶発的だよっていうお膳立てをどれだけできるかなんですよ。

――いかにして偶発性を計画するか、みたいな。

 そう、それです! 偶発性をいかに計画するかっていう不可能に近いことを、ケア実践者はみんなやっていると思います。ケアってほんとに、私が決めたことを一方的に押し付けるのとは正反対の行為なんですよ。『ゆっくり歩く』に書いたいくつものエピソードは、それがうまくいった成功例と、できなかった失敗談のどっちかなんです。