ふるさとへ

――『日本人の死生観を読む』の中では柳田国男や折口信夫の死生観についても触れておられますが、その特徴としてどういったことがいえるでしょうか。

 柳田国男や折口信夫は「民俗学」ということを言ったので、農民を中心としたごく普通の人たちが死や生をどういうふうに受け止めているか、経験しているかということを学術的な言葉にしようとした。その中では、やはり生と死の循環、先祖から子孫へとつながっていく。生きては死に、死んでは生きる。そうやって続いていく集合体の中で、人々が感じているものに共感する。こういうことだと思います。

 たとえば折口信夫は、紀伊半島の大王崎(だいおうざき)という所から海のかなたに目をやった時、その向こう側に命のふるさとがあるという感慨を持ちました(「妣が国へ・常世へ」)。子孫がそこからやって来て、先祖がそこへ帰っていく。そういう世界、永遠のふるさとみたいなものが海の向こうにあると感じたわけです。それは大いなる命のプールのようなもの。そこから生まれて、そこへ帰っていく。生と死のこういう感覚は、宗教が弱まっても、そう簡単にはなくならない。それを何とか復元できないかというのが、民俗学の目指したものです。

 『故郷(ふるさと)』(1914年)という歌がありますよね。「兎追いしかの山 小鮒釣りしかの川 夢は今もめぐりて 忘れがたきふるさと」。どこへいても、ふるさとは豊かに生き続けている。柳田邦男や折口信夫が民俗学ということを言っていた時に、この歌もできたわけです。人はみな自然に帰っていく。そこは自分の命と結び付いている子宮のようなもので、生まれてくる前のお母さんのお腹へ帰っていくというイメージです。

 で、大事なのは『故郷』の3番なんです。「志を果たして いつの日にか帰らん」ここが私はある時期まで古くさいなと思っていました。立身出世で社会的に成功しなくちゃいけないのかと。それで、もうこの歌は古いからみんな歌えないなと感じていました。ところが、そうじゃなくなってきた。最近ますますよく歌われるんです。

――そうなんですか。それはなぜなんでしょう。

 一つにはこの歌が、懐かしい自然が失われていく現代で、でもやっぱり自然は大事だよねという感覚に合ってるということ。それもあるんだけど、もう一つは3番の「志」の意味です。志というのは社会で成功して富を築いたり、地位を得たりというようなことではなくて、生きていく中で自分なりの幸せを求め、日々に希望を見出そうとしてきた。それが志なんだと理解すると、「いつの日にか帰らん」というのは、生まれてきたところへ戻っていくということ。死をそういうふうに捉えていると考えられるわけです。

 死が近づいた人が歌ってほしい曲で、『故郷』は一番人気があるそうです。日野原重明先生はキリスト教徒なんだけど、「お葬式のときにこの曲を歌うように」とおっしゃっていました。私も共感します。

――死というのは「ふるさと」に帰るということなんですね。

 誰もが持っている命の源、そこへまた帰っていく。これはそして、世界の大宗教ができる前の人類共通の宗教のもとになるアニミズムにも通じる。そこに「死に方」を見失った現代人がよりどころにできる死生観があるように思います。

――命そのものへと帰っていく。

 それを神と言ったり仏と言ったりもするんですけど。自分の力で生きているのではない。個として生きているとしても、一人ひとり別々の小さな命だとしても、何か大きなものとつながっている。

――生かされている。

 それは他者も入るし、食べている穀物、家畜、野菜、そういうものを恵んでくれる陽の光や、美しい水、きれいな大地、そういうものがあって自分の命があるという。そういうふうな、自分の体がそれだけであるんじゃなくて、いろんなものとつながっているという感じ。この歌の中には、そういうことを感じさせてくれるものがあります。

――私たちは体によって世界との境界をつくっているけど、その体はすべて自然とつながっている。そもそも自分の体自体が、自然そのものなんだっていうことですね。

 そうですね。と同時に、それは自然だけじゃなくて他者ともつながっている。他者との連帯感、あるいは愛とか共感のもとになっているもの。個人の命というものを超えて、共通の命のふるさとがあるみたいな感じではないでしょうか。


(取材日:2017年10月17日)