国語とナショナリズム

――1872年の「学制」は日本の公教育の出発点ではなく、藩校や寺子屋、そして郷学によって培われた公教育の国家による簒奪だったというお話でした。教育の近代化には、公教育から国民教育への改編という流れがあるとのことでしたが、日本の場合それはどのように進行したのでしょうか。

 私は1900年に公布された「第三次小学校令」が国民教育への転換点だと見ています。同時に、日本における教育の近代化の分水嶺だったと。

 その象徴が「国語」です。第三次小学校令によって従来の「読書」「作文」「習字」が統合され、「国語」が小学校の必須科目となりました。日本中の子どもが同じ言葉で読み、書き、話すことが義務付けられたわけです。

 国民国家というのは、ベネディクト・アンダーソンが指摘したように「想像の共同体」です。この共同体は血縁や地縁ではなく、「われわれは同じ国民だ」という共通意識だけによってつくり上げられます。ナショナリズムです。これを涵養するために、国語と歴史と道徳は非常に大切なわけです。

 国民教育の特徴は均質性です。沖縄であろうと、北海道であろうと、同じ時期に・同じ内容を・同じように経験する。それによってまさに「想像の共同体」が形成されていく。その出発点となったのが1900年で、このときに公立小学校の授業料が無償化されています。

――誰もが国民教育を受けられる、というか受けさせるために。

 そういうことです。

 「イエ」と「スシ」

 先ほど、日本は自己植民地化によって近代化を推進したと言いましたよね。その典型が北海道や琉球ですが、それだけではなく、列島をまるごと植民地化したと私は考えています。当時の国語の教科書に、その証拠の一つがあります。

 第三次小学校令の公布から3年後の1903年、文部省は、教科書の著作権を文部省が占有する「国定教科書制度」を成立させました。最初の国定教科書が使用されたのはその翌年ですが、国語の教科書の1ページ目には何が書かれていたと思いますか。

――えーと、いろはにほへと、ですか?

 残念。正解は「イエ」です。1ページ目が「イエ」、2ページ目が「スシ」。不思議だと思いませんか。なぜ、イエ・スシなのか。

――そうですね、思います。

 私も最初はわからなかったのですが、あるとき「あっ」と気づいた。これは東北の植民地化なんです。東北の方言ではイとエの区別、シとスの区別がむずかしいんです。だからそれを矯正するために、イエ・スシを載せた。


――なるほど!

 露骨でしょ。実は、この発音によって言葉をコントロールするやり方は、最初に台湾で導入されました。台湾は日清戦争後の1895年、下関条約によって日本に割譲されましたが、現地の人びとに日本語を教える際、まず発音から入った。指導したのは伊沢修二らですが、それがうまくいったので朝鮮半島でも実施し、そのあと国内の植民地化にも適用したんです。

――ある意味、逆輸入というか。

 そうですね。他にもたくさん逆植民地化の例がありますが、日本の近代化は自己植民地化、植民地化、そして逆植民地化がセットになって進行していったと考えるべきだと思います。

学級の誕生

 第三次小学校令が近代教育の分水嶺であるもう一つの大きな理由は、現在につながる「学級」のあり方が制度的に確立していったことです。

 「学級」という言葉は「クラス(class)」を翻訳したもので、1891年の「学級編成等に関する規則」で初めて登場します。クラスはもともと「階級」を意味するので、当初「学級」は個人の学習の進み具合に応じた授業の段階を示す「等級」に置き換わるものとして提示されていました。

 1900年の第三次小学校令は「等級制」を廃止し、「試験」による進級と落第がなくなります。その結果、「学級」は個人の進度を意味するものから、同一年齢の学習集団を意味するものへと変化したのです。背景にあるのは、先述した、国民教育の均質性です。飛び級も落第もなくし、同年齢の子どもたちをみんな同じように教育する「平等主義」によって、国民の同質性や仲間意識を醸成したわけです。

――1900年を境に、日本の教育が「集団主義」に変化していったと。

 いや、この時点ではまだ「集団主義」まではいっていません。というのも、当時の小学校の半数以上が単学級もしくは2学級、つまり一校に一人か二人しか先生がいなかったんです。小学校が6年制に移行したのもこの年ですが、実際には一つの教室で1年生から6年生までが学んでいました。もちろん、子どもの数が多い学校では同一年齢の生徒たちへの一斉授業が普及していきますが、昔の寺子屋と変わらない授業形態もまだまだ多かったんです。

「家族」から「王国」へ

 「学級=同一年齢の学習集団」という概念が全国に普及すると、今度は「学級経営」ということが課題になっていきます。

 学級経営ということを最初に言ったのはウィリアム・バグリーというアメリカの教育学者です。彼は1907年に出版された『クラスルームマネジメント』の中で、軍隊と工場をモデルに、どうすれば最小限の時間と労力で、最も統制のとれた、秩序ある教室をつくることができるかを検討しています。つまり、バグリーの学級経営の原理は「効率性」と「管理」なんです。

  日本では1912年、澤正という小学校の教師が書いた『学級経営』がベストセラーになりました。この本で一番強調されているのは学級の自律性です。澤は、学級は「教権」(教師の人格と機能)を中心に組織されるべきだと論じ、その「教権」は校長といえども侵すことはできないと主張しました。学校の自律性は校長に帰されるが、学級のそれは教師に帰されるのだと。

 澤は「学級は家族であるべきだ」と言います。教師が家長で、生徒はその庇護下の子どもたちであると。まさに家父長制家族そのものです。そしてこれが、日本の学級経営のベースになっていきます。

――自分の小学校時代を思い返してみると、なんとなくわかる気がします。

 これがさらに発展したのが「学級王国」です。この言葉は千葉師範付属小学校の学校要覧(1920年)に登場します。この学校の教師で自由教育運動の指導者だった手塚岸衛たちが、「われらは学級王国となる」と宣言したのです。

 この「学級王国」は二つの内容を意味していました。一つは澤正も言った教師の自律性です。学級は学校の下部組織であるものの、それ自体が自律した場であるとされ、校長や同僚の教師からの干渉を排した担任教師の自律性が主張されました。

 もう一つは、生徒が自分たちで学級を経営すること。学級には「班」や「係」がありますが、こうした自治組織による運営も「学級王国」と結びついています。担任教師は基本的には生徒たちの自治に任せつつ、何かあると班長を呼び出して指示を下す。つまり、リーダーを介して、学級全体をリモートコントロールするわけです。

  この「学級王国」は国体のミニチュアに他なりません。班や係が省庁の役割を担い、それを監督する担任教師は天皇です。これは他の国では見られない、日本独自の学級経営スタイルだと私は見ています。

――生徒たちによる自治組織の上に、担任教師という「絶対権力者」がいるのがポイントなんですね。

 そういうことです。それによって自主性と管理が一体となり、ミシェル・フーコーが指摘したような、規律を内面化し、自ら進んで集団のルールに従う主体が生まれてしまう。こうした学級経営のしくみは、その後の大政翼賛運動のなかで集団主義的な性格を強め、戦時下の全体主義教育へとつながっていきます。

 澤正や手塚岸衛たちによる大正自由教育は、一般に、国家主義の教育に対する個人主義の教育の抵抗として理解されてきました。しかし、私はこれを、第三次小学校令によって制度化された国民教育(国民国家)の「主体化・内面化」として捉え直す必要があると考えています。