「学制」とは何だったのか

――今日は学校や学級が日本の近代化とどう関わってきたのかについてお聞きしたいと思います。まず、教育の近代化とは、簡単に言うとどういうことでしょうか。

 近代化には政治、経済、社会といったさまざまな次元があり、それぞれ分けて見ていく必要がありますが、教育におけるそれはまず、「公教育」の成立に始まります。これは西洋で起こるわけですが、その本質は、宗教権力や国家権力からの教育の独立です。その地域や社会における一般的な知識を、階級、人種、性別、世代といった違いを超えて、すべての人に教授すること、それが公教育です。

 しかし公教育は現実には国民国家によって回収され、国民の統合を目的とする「国民教育」へと再編成されていきます。この公教育の成立から国民教育への改編という流れが、教育の近代化ということになると思います。

――日本に当てはめると、国民皆学(かいがく)を謳った「学制」(1872年)が公教育のはじまりということですか。

 そのように言われることは多いですが、私はそうではないと考えています。

 日本では幕末に「郷学(ごうがく)」(郷校)が爆発的に全国に普及しました。この郷学というのは、武士の子が通う「藩校」と庶民の子が通う「寺子屋」の区別をなくした学校です。したがってそこでは読み書きや裁縫といった実用的な知識に加え、国学、漢学、洋学を学ぶことができた。つまり、幕末期には、既に公教育が成立していたわけです。

  では、明治5年の学制とは何だったのかというと、国家による公教育の簒奪(さんだつ)です。これについては、近代化と植民地化の関係について触れておく必要があるでしょう。

近代化と植民地化

 1990年代の中国や韓国それに台湾の歴史学で、かつての日本による植民地支配は近代化を推進したのか、それとも植民地化だったのかという論争がありました。私は何度か招かれてその議論に参加したのですが、その際に、近代化と植民地化が対立的に扱われていることに疑問を感じました。つまり、近代化と植民地化というのは、同義なのではないかと。

 イギリスやフランスやオランダといった一部の宗主国を除けば、近代化は植民地化を通して進行しています。日本は特定の国の統治下に置かれることこそありませんでしたが、西洋のシステムを「翻訳」して取り入れ、全土に普及させることで、自ら植民地化=近代化していきました。私はこれを「自己植民地化」と呼んでいます。「学制」は教育の自己植民地化の出発点と捉えることができます。

 これを端的に表しているのが教科です。「学制」では例として27の教科が掲げられていますが、その教科名はすべてアメリカの教科の翻訳で、教科書もアメリカの教科書を翻訳したものでした。

 「学制」は全国を八つの大学区に分け、一大学区を32の中学区に分け、256の中学校の一中学区を210の小学区に分割し、それぞれの学区に「大学」「中学校」「小学校」を配置する構想を提示しました。これはフランスの学校制度を導入したものですが、新政府の一番の狙いは知を序列化することでした。すなわち、帝国大学を頂点とした教養と文化の知的ヒエラルキーを構成しようとしたわけです。

  先ほどの郷学の例からもわかるように、それまでの日本は教養にしても文化にしても多元的で、各地に分散していました。だからこそ、後のリーダーとなるような人物がさまざまな地域から輩出されたのですが、「学制」は各地で成熟しつつあった教育を、東京を中心とする一元的な序列構造に組み替えていったのです。

自学自習から一斉授業へ

――江戸時代の日本は識字率が高かったとよく聞きますが、これはそれだけ教育が普及していたということですか。

 
そう考えてもいいと思います。18、9世紀の日本の教育水準は世界でもトップレベルで、これは藩校の水準の高さと、寺子屋の広がりが大きな要因です。

――藩校や寺子屋の学びというのはどういうものですか。

 いちばん大きな特徴は自学自習だったということです。藩校からお話しましょう。

 藩校は文字通り藩士の子弟を教育するために設立された学校で、子どもたちの約1割がここで学びました。森鴎外なども書いていますが、当時の藩校はものすごくレベルが高く、6歳で四書五経(『論語』や『孟子』など、儒教で基礎とされる9冊の書物の総称)を暗記していたそうです。

――6歳で! それはとんでもないですね。

 さすがに意味まではよくわかっていないと思いますけどね。

 藩校には素読・輪講・質問という3つのプロセスがありました。まず、素読というのは一人で書物を暗唱すること。それこそ四書五経などを読むわけですが、個々の進み具合によってテキストは異なります。次の輪講は、いわば自主ゼミナール。さまざまな問題について、子どもたち同士で議論するわけです。そこでどうしてもわからない問題があると、代表が師範に質問に行く。これが基本的なスタイルでした。なので、自学自習ならびに協同学習と考えればいいと思います。

  一方の寺子屋では「往来物(おうらいもの)」という教科書が使われていました。往来物には「商売往来」や「農事往来」、「地理往来」といったいろんな種類があります。こちらも基本的には個々で学習し、わからなかったら師匠に質問に行くという形です。寺子屋の様子を描いた絵はたくさん残っていますが、わりとみんな遊んでいますよね。そこから察するに、けっこう賑やかな場だったんじゃないかと思います。

――なるほど。では、先生が教壇に立って教えるようになるのは、それこそ「学制」以降ということですか。

 そうです。明治政府は「学制」を公布した明治5年に東京に師範学校をつくり、アメリカからマリオン・スコットという教育者を招きます。スコットは、全国から集められた教育のリーダーたちに一斉授業の様式を指導するのですが、そこで伝えられたのが教師が質問して生徒が答える「問答法」でした。

 スコットの一斉授業を紹介した『小学教師必携』という記録には、次のように書かれています。

単語帳を用い、図中の画を指し示し、その物品の性質、或は用い方、或は食し方等を問答すべし、左に一二の例を掲ぐ、

柿という物は、如何なる物なりや、〇柿の木に熟する実なり、
何の用たる物なりや、〇果物の一種にして、食物となるものなり、
如何にして食するや、〇多く生にて食し、稀には、乾して食するもあり、
其味は如何なるや、〇甚だ甘し、
初より然るや、〇否、青き時は渋し、(以下略)

 こうした授業スタイルを師範学校に来た人たちが学び、全国に広めていきました。その結果学びの形態が、自学自習から一斉授業へと変化したわけです。

 もう一つ重要なのは、「学制」が「等級制」と「試験」を導入した点です。「学制」の小学校は下等小学と上等小学の4年制で、半年ごとに八つのグレード(grade)、つまり段階に分かれていました。このグレードの翻訳が「等級」です。上の等級に進むためには試験に合格する必要がありました。「学制」は14もの条文によって、この試験を細かく規定しています。

 このことは、「学制」の学校が「人民一班」の教育、つまり「普通教育」による共生のユートピアを掲げながら、もう一方で、厳しい競争と差別の装置として成立したことを意味しています。私は、近代化とはクラシフィケーション、すなわち分類とランキング化の浸透であると考えていますが、「学制」を読むとそれがよくわかります。