いろいろな自殺

――集団が強固だったときは、とにかく自分はその中で生きて、その中で死ぬんだということを素直に信じていられたけど、集団がばらけてしまうと、「自分は何のために生きているんだ」と考えるようになったということですね。

 そういえると思います。これが西洋ではキリスト教を信じない、あるいは信じられないということになる。「神は死んだ」と言ったのはニーチェですが、19世紀後半になると、そういう考え方が広まってきます。明治30年代に、そういう点でとても影響を与えたのがトルストイです。この人はロシア人ですけれども、キリスト教が次第に信じられなくなってきて、ある時期すごいスランプになるわけです。

 大作家なんですが、自分の生きてる根本が分からなくなり、小説も書けなくなる。その間にキリスト教を根本から捉え直して、何とか自分なりの信仰をつかみ取ろうとする。そして教会のキリスト教とは非常に違う、個人的な近代思想ともある程度波長が合うようなものをつくっていきます。そういう人が日本でも受け入れられるようになり、文学者とか、思想家といった人が偉く見えてくる。そういう時代に、死生観というようなことがテーマになるわけです。

 「死生観」という言葉は明治の終わりごろに加藤咄堂という人が言ったんですが、ほぼ同じ頃に藤村操という一高の学生が華厳の滝から身を投げたことで、自殺が大きな話題になりました。しばらく後に夏目漱石が『こころ』という小説を書いていますけど、あれは自分の親友が自殺してしまったことに責任を感じた「先生」が、自分もまた自殺してしまうという話ですよね。こんなふうに自ら命を絶つ、人生に絶望して死んでいくということが選択肢に入る時代になった。

――逆に言うと、それまでの時代は、武士であれば自分の命は君主のものだったり、集団のものだったりするので、それを自ら断つということはあり得なかったわけですか。

 一概にそうは言えないですね。たとえば殉死とか。赤穂浪士なんてのも集団自殺と思えば自殺ですよね。

――たしかに。

 集団自殺なんだけど、主君の名誉のために自ら命をささげて恥をぬぐい去る。こういうことが最高の生きがいだと感じる人たちがいて、大衆もそれに共感しました。それから近松門左衛門なんかでいうと、男女の心中も自殺ですよね。

――なるほど、心中もありますね。

 心中は自殺そのものなんだけれど、そこには甘美な男女の愛があり、名誉の意識があり、ある種の社会的抑圧に対する反抗のようなものもある。これは浄土教から見ると間違った解釈かもしれないけれども、甘美な死を遂げて共に仏になるみたいな、そういうニュアンスもちょっと入っているわけです。

――身分的にこの世では結ばれない二人が、死んであの世で一緒になるみたいな。

 そういう感じもあります。ネットで知り合った人が自殺するというのが最近あるらしいですが、そういうのに近いのかもしれない。近松には、最後に死んでゆく2人が共に歩いていく「道行き」という場面がありますが、そこには恐らく永遠の世界へ向かっていくという意味合いがあると思います。