未来から到来するD
――現代の社会は資本(交換様式C)、ネーション(交換様式A)、国家(交換様式B)の三つが絡まり合って構成されており、この体制である限り、戦争や恐慌を避けることはできないというのが柄谷行人の議論の大枠であるというお話でした。この体制を突き崩すものとして彼は、交換様式A(贈与と返礼)の高次元での回復である交換様式Dを打ち出しているわけですが、このDによって生まれる社会はどのようなものだと考えられますか。
そこが非常に難しいんですよね。本によっては柄谷さんはアソシエーション(同じ目的を持つ人びとが自発的に組織する集団)だと言っていて、だとするとプルードンやバクーニンといったアナーキズムの議論に近くなるように思うんですけど、彼自身は、すくなくとも正面からはアナーキズムだと認めていない。たしかにアナーキストであれば、贈与社会は支持しないと思うんですよ。国家も資本主義もイヤだけど、村落共同体みたいなものに縛られるのもまっぴらだと。
じゃあ結局はコミュニティなのかというと、それには閉鎖性や同町圧力といった問題があるのは当然わかっているし、ナショナリズムやファシズムに陥る危険性もあるので、コミュニティを生み出す交換様式Aを無条件に肯定することはできない。それで、Aの高次元の回復だと言ったり、アソシエーションみたいなものも否定しないということだと思うのですが、そこから先、柄谷さん自身は交換様式Dについてあまり具体的には語っていないんですよ。それは未来から到来するものであって、人為的に考えて作り出そうとしても無理だと。
――それは困りましたね。
こうした言い方には恐らく、実在した社会主義体制・共産主義体制に対する強い警戒感があるんだと思います。マルクス自身がどうだったかは微妙ですが、未来の理想社会は自分たちで実現できるという発想に、少なくともソ連という国家体制はこだわった結果、多くの惨禍をまき散らすことになった。このことがあるので、自分たちで青写真を描けば理想の社会が実現するという風には言いたくないのかなと。
交換様式AからBやCが生まれてきたこともそうですが、その後Bが優勢になって世界大戦が、Cが優勢になって世界恐慌が起きたというように、物事はやはり偶然性に大きく左右されます。とはいえ、じゃあわれわれは偶然に身を委ねるしかないかというと、避けられた戦争も恐慌もあるはずなので、人為が無力だというわけではない。すべてが必然でも逆に偶然でもないのだから、Dという新しい交換様式は未来からやってくる、という言い方に落ち着いたのではないかと思います。
コミュニティを抜け出す
――先生は交換様式Dを考える上で「純粋贈与」という概念に着目されていますね。
交換様式Aの贈与と返礼から生まれるコミュニティ、たとえば村落共同体のようなものを考えたときに、平等性や人間的な交流といった美点はたしかにあるのですが、同時に移動の自由を制限する閉鎖性や同調圧力といった人権に関わる問題点もあります。極端な例だと、古くからの信仰や習わしに従って誰かを生贄に差し出す、といったこともないとは言えません。なので、コミュニティの論理だけだとやっぱりまずいよなあと考えていたときに、ふと、コミュニティにいながらそれを抜け出すことができればいいんじゃないかと思ったんですね。
最初の方でも触れましたけど、文化人類学の研究では、いくつもの部族を渡り、さらには世代をも超えるような贈与交換の事例が報告されています。じゃあ、その贈与交換の初発は何かというと、それはおそらく、何のためにするのかわからない贈与だと思うんですよ。見返りがあるわけでも、他の誰かからもらったものをまわすでもない、まさに贈与そのものであるような贈与。それはもはや交換ではなく、財産を投げ捨てるのに等しい行為ですよね。で、調べてみると、それを「純粋贈与」として考察している研究があることを知りました。
この純粋贈与が可能かどうかは議論が分かれていて、ジャック・デリダは人間は生まれた瞬間から贈与にさらされており、一見純粋贈与に見えるものでも実は返礼であって、贈与交換の論理から逃れることはできないとしています。
――純粋贈与は存在しないと。
これに対して今村仁司は贈ってから返ってくるまでの「時間」に着目し、この時間の間隔を置くことで、純粋贈与の不可能性を可能性に変換できるとしています。贈与交換の一つの局面、つまりは贈与している瞬間だけをスナップショットのように切り取れば、そこにはただ贈るだけで返礼のない、一方的な行為を写し取ることができる。それを「純粋贈与」として概念化できるのではないかと。
私はこの今村さんの議論に示唆を受けたのですが、純粋贈与がもしも不可能だとしたら、贈与交換がはじまらないと思うんですよね。純粋贈与はおそらく未知の相手への贈与であり、それ故に、交換になるかどうかわからない行為です。いま仮にある村でA → B → C → D → Aという円環を描く贈与交換が成立していたとします。ここでAがこの村の外部のEに贈与したとすると、それは純粋贈与になる。
――AとEには関係性がないので、返礼が期待できないわけですね。
そういうことです。ここでEが受け取らなかったらそれまでですが、受け取って、今度はそれを自分の村のFに、FからGに……と贈与していき、最後にAに贈与されたならば、AとEがそれぞれ属していた2つのコミュニティは解体され、より大きな一つのコミュニティとして再編する可能性に開かれる。つまり純粋贈与は、コミュニティの中にいながらそれを抜け出し、新たなコミュニティの土壌をつくる契機となるわけです。
ただしこれには逆の可能性もあって、AからEへの贈与が繰り返されることで、Aはこれまで交流してきたBへの贈り物ができなくなり、もともとあった贈与交換の輪が崩れて、Aの村は衰亡してしまうかもしれない。なのでこれは、ある意味命がけの贈与なわけです。
純粋贈与が贈与交換の初発だとすると、それは交換様式Aに属するように見えますが、モースの言う贈与の3つの義務(与える義務、受け取る義務、返礼の義務)のいずれも該当していないことを考えると、どうもAそのものではない。しかし、コミュニティの形成に関わる話ではあることは確かなので、これを交換様式Aの高次元の回復、すなわち交換様式Dと呼んでもいいのではないかと考えた次第です。
――ちょっと思ったんですけど、「与える義務」も「返礼の義務」もない上に、下手をすると今のコミュニティを壊すかもしれない贈与がなぜ起こるんでしょうか。
まさにそれが問題で、私が純粋贈与に着目した理由も実はそれなんです。正直に言うとまだよくわからないのですが、いつもの習慣から外れる行動をとることって、誰にでもあると思うんですよね。多くの場合それは「気まぐれ」や「なんとなく」という言葉で表現されますが、その行動によって新しい宗教が生まれたりすると「神の啓示を受けた」とか「精霊がささやいた」などと語られることもある。論理的な説明はほとんど不可能なんですけど、われわれにはある種のルールや既存の行動様式からはずれる瞬間があるのは確かであり、純粋贈与もそのひとつと考えられるのかもしれません。
他には、一種のミスや偶然性が介入して、本当はあげるつもりなんてなかったのに手違いであげてしまった、ということもあるかなと思います。
――そういえば、その家の子どもがまだ小さい時に着ていた服や三輪車なんかが、「ご自由にお持ちください」みたいな感じで玄関先に置いてあることがありますけど、あれなんかもたぶん返礼は期待していないですよね。
たしかにそれも純粋贈与の一種かもしれませんね。その三輪車を持っていった家の人が数年後、お役御免になったそれをまた家の前に置いておくと、純粋贈与の連鎖が起きることになりますね。そう考えてみると、古本屋やリサイクルショップに本や家電を持っていくのも、半分はもちろんお金を期待しているのでしょうが、商品交換(=交換様式C)にはおさまらない何かというか、誰かに受け取って再利用してほしいという気持ちがあるように思います。
――贈り手と受け取り手があらかじめ決まっているのではなく、受け取り手が不在の状態で、あるいは潜在的な受け取り手に向けてなされるというのが、純粋贈与の一つの形なのかもしれませんね。


