私は早稲田大学の文学学術院の東洋哲学コースに所属して、中国の道教について研究しています。これまで中国の十七世紀中葉から二十世紀初頭に至る道教の宗教的な実践について、いくつかの観点から研究してきました。道教の中でも全真教といわれる伝統や、彼らの間で教祖の一人とみなされる伝説的な仙人である呂洞賓(呂祖)に対する信仰、また、彼らの修行法の中核にある内丹法という瞑想法などについて研究しています。最近は、少し対象とする時代を広げていこうと考えているところです。
二十代から研究を始めて、昨年還暦を迎えました。まさに十年一日という感じで、同じことをやり続けたままあっという間に年を取ってしまったな、と焦りを感じています。ただ、続けるなかで、研究がますます面白く感じられるようになっていることには救いを感じてもいます。今になって「つまらない。やめときゃよかった。人生無駄だった」と思うのは悲惨ですからね。
面白いと感じられる理由は、とにかく知りたいことが増えること。あと、あくまで過去の自分と比べればということですが、昔歯の立たなかった文献が徐々に読めるようになっていくということです。特に、内丹法という、身体の中の錬丹術に関する文献は非常に難解なのですが、最近なんとか扱えるようになりました。
また、研究対象に関連する大きな図式を構想することができるように感じているということも、研究が面白くて仕方がないと思える理由の一角を支えています。道教の研究をするなかで、最近とくに強く思うのは、自分がやっているのは中国の倫理思想史の研究だったのだな、ということです。前近代の中国の人々が、彼らの日常生活の中で、自己のあり方の正しさを問う際に参照するための伝統について、自分は勉強しているのだと感じます。
道教は、儒教・仏教とならんで、中国におけるいわゆる「三教」(さんぎょう)のひとつとして、意識されてきました。自分たちにとっての倫理的な源泉を三つに分けてイメージしてきたのです。もちろん、現実はそんなに単純なものではないでしょう。儒教・道教・仏教のどれもがきわめて長い時間にわたる複雑な思索や実践の堆積を経て形成されています。また三教の様々な要素はたがいに絡みあっているので、そう簡単にきっぱりと三つに分けることもできなければ、またおのおのを一個の自立的な体系のようにして描き出すことも無理があるだろうと思います。
ただ、注目すべきは、たくさんの曖昧な要素や、虚構や幻想を含みながら、それでも昔から中国の知識人たち、さらに明清時代にでも至れば庶民層に近い人々をも含む無数の人々が、細かい点はさしおいて、とにかく三教が存在するという想定や語りのもとで生きてきたということです。そして、そのような想定や語りは、現実に人々の生活の倫理道徳を支える規範として機能してきました。
儒教や仏教が倫理道徳の規範として機能することは研究の蓄積もあり、また常識や実感としてもわかりやすいかもしれません。でも、道教の場合はどうなのでしょうか? そのあたりを少しお話します。
道教成立の三段階
道教研究者の横手裕氏が、そのすぐれた著作『道教の歴史』(山川出版社、2015年)で紹介しているように、中国の知識人たちは道教(「道家」と表現されることが多い)を三つの層からなる伝統として理解していたようです。典型的には劉勰(りゅうきょう/465?-532?)が『滅惑論』という書のなかで、「道家」を「老子」「神仙」「張陵」の三つに分けているのが注目されます。
老子というのは、戦国時代の思想家で、荘子とともにいわゆる老荘思想の出発点を形成する老子、神仙は仙人、張陵とは五斗米道(すなわち天師道)の最初の首領で張道陵とも呼ばれます。この三つの要素から成るということを、細かい点をはしょって、一般化して図式化すると、道教は、(1)老荘思想と(2)神仙信仰と(3)天師道を発祥とする共同体の宗教、という三つの次元から成るという見方として受け止めることができます。
これは、道教の中に、三つの次元が共時的な三層として存在することを示しているという見方もできますし、またこの三層が、(1)(2)(3)の順序で、歴史的に形成されてきたとも見ることができるかと思います。さらに面白く感じられるのは、この三層は、道教の倫理的な重層構造としても理解できるということです。
老荘思想の形成
(1)の老荘思想とは、『老子』と『荘子』(そうじ)という古典籍に代表される古代中国の一連の思想を指す言葉です。これは、戦国時代、紀元前4世紀ころにその最初の隆盛を迎えて著作化されたように思われます。『老子』も『荘子』も、もともとは互いに交渉の無い別個の思想家もしくは思想家集団による著作でしたが、その思想の根底が共通していて、紀元前2世紀頃には「老荘」とか「道家」といった言葉でひとくくりにされるようになっていきます。
彼らはこの世界に「自然」という次元があることを発見します。「自然」とは自発・自立・独立という意味とほぼ同じで、ほかのものに依存せずそれ自身でそうなっている、という意味です。神が作るわけでも人がつくるわけでもなく、最初から、それ自体として生成変化するのがこの世界である、ということを彼らは発見したのです。
『老子』以前には、世界を「自然」(それ自身で生成するもの)として考える観点は存在しませんでした。世界の起源であるとか、世界に関する存在論的な問いは、中国文明においては『老子』において初めて発せられた可能性が高いのです。そういう自然な世界に、人の存在や人の共同性は本来包摂されており、人や暮らしにはそもそもの自然があると考えます。

ところが、人は言語的な価値生成のとりことなり、人為的な価値対立や、名前による仕分けを積極的に行い、欲や知によって人工的な世界を拡張発展させてゆく。そういう人為の最悪の形体が戦争であることを『老子』という著作は喝破します。儒教のように、仁義礼智を重視して、それで規範を作って正しさを規定するような営みは間違っているというわけです。
老荘思想は儒教が奉じていた、社会の枠組み(習慣や伝統的規範)に依存する倫理に対抗して、社会の外部にある存在論的な観点に立脚する倫理的正統性を提示したといえます。これに従えば、本当の正しさとは、宇宙の存在が体現する自然そのままであること、自然を毀損しないことであることになります。赤ん坊のように無知無欲で、この世界の変化をそのまま受け入れて、ストレス・フリーで生きること、それが正しさであると言うわけです。無為無欲によって達成される正しさです。
後世の道教の倫理観の基盤はやはり自然の存在論に根ざしており、それは老荘思想によって提供されたものが受け継がれているのです。ただ、この倫理観自体は儒者を含む多くの知識人によって採用・継承され、『易』に代表される儒教の宇宙観の土台にもなり、決して排他的に道家の徒によって形成される社会集団の倫理を形成しているとはいえません。老荘思想を排他的に担う社会集団というのは存在しなかった。それは開かれた哲学だったのです。
神仙信仰の展開
むしろ、道教を奉じる社会を創成し、道士たちの母胎のようなものを生み出したのは、(2)の神仙信仰の実践に従事する人々だったようです。儒者たちが、穀物を収穫する平野を中心とした農耕社会に根ざすのに対して、農耕社会に起こりがちな戦乱を避けて山の中で禁欲的な修行生活をいとなむ人々がいました。それが神仙修行者たちです。彼らは、穀物を食べずに、山の木の実などを食べて、特殊な生活技術を身につけて山の中で生活しています。彼らからすると、平野は死の世界で、山の中こそが生命の世界でした。
また、彼らは仙人となることを目指して修行しますが、その仙人の特徴には、穀物を食べないということのほかに、不死という重要なポイントがあります。ただ、中国において、仙人という不死者の物語は決して道教徒の独占物ではありませんでした。

仙人は、後の時代に至るまで、さまざまな立場の語り手によって、世俗とは異なる異形の存在として多様に語られます。世俗と鋭く対立する不死性という部分は誰もが守らざるを得ない設定でしたが、世俗との対立をどういう風に描くかは語り手の自由に委ねられていました。不死性を、途方もない呪術を行う力や、おもしろおかしいトリックスター、不潔な物乞いなどとして描くのは典型的な手法です。不死とは非世俗なのです。そのため、時には仙人を悪辣でエロティックな、つまり非倫理的存在として形象化したりもできてしまいます。
それに対して、神仙修行者、特に道士によって受け継がれてゆく伝統を形成した修行者たちは、仙人の不死性を、至高の倫理性としてイメージします。もともと雑多だったであろう仙人のイメージを、修行者たちは罪の汚れから離脱することを得た者であり、そういう倫理性の究極に不死を重ねるようになっていったようです。
晉の時代の代表的な神仙道の理論家である葛洪(かっこう/283-343)『抱朴子内篇』(ほうぼくしないへん)が描く神仙修行者たちのなかには、道誡と呼ばれる戒律を作って、自分たちを倫理的に律して生活を送った者がいた事実が明確に示されています。それによると、例えば、生きとし生ける物を憐れみなさい、偉ぶるな、自慢するな、嫉妬するな、……といった、日常生活を律する条項が存在していたことがわかります。
戒律で禁止された悪事を行うと寿命が減り、逆に推奨される善行を行うと寿命が延びるとされます。不老不死は、直接的に日常生活の善悪の問題として理解されるようになります。修行者たちにとって、不死の修行とは、日常生活における倫理的な自己管理を内包するものでした。このように、不死を具体的な倫理実践に結びつけて理解する傾向は、後世における道教に継承されてゆきます。
不死を求めることは自然なのか?
ところで、ここで疑問を感じる人も多いでしょう。不死の希求は、自然ではないのではないか、と。実際、『荘子』には死を自然の一部として受け入れ、生と死はひとつながりであるとする説があり、先述の葛洪はまさしくそういう『荘子』の説を神仙説とは異なるものとして批判しています。しかし、他方で『荘子』には、仙人に近い神人や真人といった超越者たちを、自然の世界と一体化した存在として描く視点があります。
例えば、『荘子』には、無為自然な態度を体得して長生不死になった得道者の広成子と黄帝の問答があります。『荘子』には、自然と調和した生き方を説く仕方のなかに、神仙説と対立する言説と、それと調和する言説の両方が含まれているのです。そのうち、後者は神仙説と老荘思想の融合という、道教にとって非常に重要な展開過程を内包していたと見ることができるでしょう。
つまり、段階としてはより早く成立した(1)の老荘思想のなかに、すでに部分的に(2)の神仙信仰における不死の希求が描かれている面があると見てよいのでしょう。そこでは、不死性は天地の自然と表裏するものとして想定されています。老荘思想における不死の倫理は、あくまでも無為無欲であれば天地自然本来の永遠性と合一できるという、老荘の倫理に関する表現のバリエーションとして理解することができるでしょう。
しかしそれが、(2)のフェイズの、例えば上に言及した戒律「道誡」に従って修行する神仙修行者たちにおいては、倫理が単に無為無欲による形而上的な次元での道との一致という原理にとどまらず、より世間的な、日常的な倫理実践として想定されていることがわかります。
道士の宗教の形成
このような神仙修行を営む師弟たちの中から道士(女性の道士は女冠とか女道士などと呼称する)が登場します。最初の道士というべき人物が、五斗米道の初代の首領であった張陵(張道陵ともいう)です。五斗米道はやがて天師道と称されるようになり、その後の道教の起点を成します。
道教が伝える伝説によれば、張陵は、後漢の漢安元(142)年、蜀の成都に程近い鶴鳴山の山中で神格化した老子に出会い、その啓示を受けたといいます。老子は張陵の前で太上老君という超自然的な神格としての正体を示して、彼に天師という鬼神崇拝に対抗するリーダーとしての地位を与えます。このような啓示を張陵が受けたことがどの程度史実に根ざすかは不明な点がありますが、後世の道教において一貫して伝えられるストーリーですので、道教徒の意識においてひとつの事実として確立した物語として受け止められていたことは間違いないでしょう。

その後、張陵の教団は巴蜀(はしょく)の地域に広く広がり、事実上漢王朝からは独立した宗教国家を確立します。天師道の大きな特徴は、やはりその倫理観にあります。天師道は、祖先信仰も含む中国在来の鬼神信仰に対して痛烈な批判を加えました。ここで言う鬼神とは死者の霊魂です。
当時の中国において鬼神は祟りによって病や死を郷村や家にもたらす存在として畏怖され崇拝されていました。祟る鬼神に盛大な供物を提供する祭を行ってその怒りを解き、郷村や家に安寧をもたらすことが、彼らにとっての倫理的な行為だったと思われます。その鬼神たちを代表していたのが、巫(ふ)とか祝などと呼ばれるシャーマニスティックな儀礼を行う地域の霊媒たちです。
地域共同体や家々が正常に機能している間は、巫祝を宗教職能者とする鬼神信仰も問題なかったと思われますが、後漢末期の戦乱の中で郷村や家が危機に瀕すると、人々はパニックに陥って鬼神への儀礼が激化し、それがかえって経済的負担となって、共同体が崩壊するという悪循環に陥ったようです。
祖先の罪を贖う儀礼
そうした中に登場するのが、張陵が開いた天師道(五斗米道)でした。天師道は、民間の鬼神信仰を、鬼神という死者の力に翻弄される非倫理的な悪なるいとなみとみなし、それに対して、太上老君や、太上大道などと称される「道」の神がみを、自然なる不死の力を世界に供給する正義の神がみとして対置します。道教徒にとって、鬼神は、戒律を守ることができずに欲にまみれて病にかかって死んだ非倫理的な死者霊として問題視され、調伏と救済の対象として描かれます。
しかし、道教徒にとって鬼神の問題は決して他人事ではなく、身近で切実な問題でした。道教徒は、祖先の犯した罪が子孫へと伝わり蓄積されてゆくという考え方を持っています。この考え方は道教に限ったことではなく、民間にもともと潜在していたもののようですが、道教ではこれを特に意識し、血縁を通じて蓄積した罪が、鬼神による祟りや、家族や自分の病や死として発現するものと考えていました。
人々は、死ぬことによって不可避的に鬼神となってゆきますが、それを道教は人々が不可避的に罪を犯し問題を抱えることだと理解したのです。人は死ねば鬼となるという考え方は、中国文化における信仰の基本であるため、道教に帰依した信徒たちも、この問題から無縁ではありえなかったのです。
その解決策として道教が盛んに用いるのが、道士を介して神々に罪の告白をする儀礼です。これによって、祖先以来の罪を贖(あがな)うのです。この贖罪儀礼を行うことで、病者は癒え、死んだ祖仙や自分の家族たちは、鬼神の世界の暗い牢獄における幽閉状態から、天上の仙人の世界へと昇天することができると考えられていました。このような、罪の告白を中核にもつのが道教の諸々の醮斎醮(さいしょう)儀礼です。
古来中国では、神々を祭って祈祷するのに際して、司祭者が吾が身を清潔にする「斎」(ものいみ)を行い、その後神々を儀礼場に降臨させ、犠牲の動物の肉を酒とともに供してもてなす行事(醮)を行って神々を満足させ、最後に送り帰す行事を行っていました。道教でも、道教の神を迎えて送り帰すという形で斎醮儀礼を行います。しかし、その際、道士は身体的な精進潔斎だけでなく、信徒に罪の告白を行わせることで、いわば心の潔斎、精神的なものいみを行います。
また、道教の神々は、鬼神に代表される從來の神々が酒肉を食らうのとは異なり、血なまぐさい犠牲(血食)を要求せず、酒も飲まないとされます。道教の神々は血食を忌むのです。これもやはり動物の命を奪う罪を避けることに、少なくともその目的の一部があるかと思われます。こうして、道教の斎醮儀礼は、従来の斎醮とは異なり、罪の告白と、血食を使わない醮を行うことによって精神化・倫理化されて成立するのです。
なお、道教儀礼における罪の告白とは、信徒が思い思いに行うものではなく、あらかじめ数多くの罪に対応できるようにひな形が作られており、それに沿って道士が代わりに読み上げていくことで実施されます。そういう類型的な文書が、初期の天師道では約千二百種類も作られていたようです。現在にいたるまで、そうした文書のひな形がいくつかが伝えられています。
道士たちは、神仙修行者であるという点では、従来の(2)の層における修行者と同じですが、天師道においてはコミュニティの成員たちの罪を贖い、コミュニティを精神的・倫理的に浄化することを目的として活動していました。(2)の神仙道が、師弟関係を中心に小規模な集団生活を組織管理するに過ぎなかったのに対して、天師道は、後漢から三国時代にかけて広大な領域で二十四の行政中心(二十四治)を設けて、多くの信徒の生活を管理するノウハウを自分たちの儀礼の伝統に組み込みました。四川の宗教国家は魏の曹操(そうそう155-220)によって解体されますが、その後広く天下に拡散し、各地で「治」を置いて道士を核とし「道民」と呼ばれる信徒たちの生活規範を構築・管理していったと思われます。その規模や組織力において、(3)の天師道は(2)の神仙道とは雲泥の差があるといえるでしょう。
天下に拡散した天師道(道教)において、道士ではない信徒たちは、もはやかつての四川地域におけるような排他的に道教のみを信奉する道民ではなく、時と場合によって儒教も仏教も実践するような人々が多数を占めるようになっていったことでしょう。しかし、そうした一般の人々の中に、道教的な実践を一定程度広めて定着させることに道教は成功したはずです。それによって、道教は前近代の中国の人々にとっての日常的な実践倫理の一部になったと考えられます。中国では、儒教も仏教も、一般の人々の日常生活における倫理規範となりますが、道教も例外ではありませんでした。おそらく三教として確立する要件のひとつに「多くの人々の日常的な実践倫理になる」という事項が含まれているのでしょう。
中国の倫理的な源泉のひとつとしての道教の成立
以上のようにして見てくると、道教の成立の過程を通じて、そこには独自の倫理が重層的に形成されてきたようすが見てとれます。最初は、(1)老荘思想が「自然」という正しさの根底を提示し、自然に沿った生き方が正しいという図式が構築されます。次に、(2)神仙修行者たちは、自分たちの不死という理想を支える倫理的な正統性の基底としてこの自然観を採用しますが、師弟関係を核とする彼らの生活の中で、倫理規範には日々の暮らしの細々としたことを管理する具体性が注ぎ込まれ、それが不死に結びつけられてゆきました。
さらに、(3)天師道の段階においては、不死は、大規模なコミュニティの中で日常的な実践によって獲得されるものとされ、儀礼的に演出された罪からの解放、祖先たちが犯した罪を贖った後の無垢なる正しさの象徴となります。このように倫理化された不死の観念は、道教によって人々の日常的な実践倫理として定着してゆき、その結果道教は儒教・仏教とならぶ倫理的源泉として三教の一角を占めるようになったと思われます。
おわりに
道教の歴史は複雑で、道教を理解するために語るべき話題は沢山あります。しかし、それらはここではすべて割愛しています。ここでは、道教の核心部分が成立する際に、堅牢な倫理的な基盤が形成されたことを中心にお話ししました。今回ここでお話しした天師道と呼ばれる道教の根っこの部分が、この後に続く時代の中でさらに展開していきます。そうした展開の根本にあるのが、老荘思想・神仙信仰・天師道という三層の生成過程の中で培われた、重層的な倫理の構造だろうと考えられるわけです。
中国の文明圏においては、西洋世界と交わる久しい以前から、自前の倫理思想が発達し、儒教・道教・仏教という三つの源泉を有するというイメージのもと広範囲に共有されてきました。中国は古代から法律による統治が発達し、外から人々に強制的にあてがわれるべき秩序が、強大な王朝の武力を背景に発展してきました。
儒仏道の三教は、あたかもこの外なる力に対して、人々が自分の生活を内なる力によって自律的に秩序づけることができることを示すかのように展開していったものと私は推測しています。三教を中国の内在的な倫理的正統性の源泉として位置づけ、その中における道教の倫理の形成と展開を位置づけてみたいと考えているのです。
(早稲田大学 文学学術院 東洋哲学コース 森由利亜)
