ジョットの存在があまりにも大きすぎたためか、彼が一線を退いた1330年以降、フィレンツェ美術をめぐる状況は決して良好なものではありませんでした。ジョットの一番弟子だったタッデオ・ガッディは、師の革新的な表現を模倣するにとどまり、独自の表現を確立できず、作品の質という点でも師には遠く及びませんでした。さらに1340年代のペストの大流行が追い打ちをかけ、14世紀後半になるとフィレンツェ美術はかつての勢いを完全に失ってしまったのです(第36回コラム参照)。
このような停滞状況を打開するために、新しい時代の幕開けである1401年に、街の文化を支えてきた毛織物商組合(アルテ・ディ・カリマーラ)は、一大イベントを開催することにしました。それがサン・ジョヴァンニ洗礼堂、通称フィレンツェ洗礼堂の門扉装飾のためのコンクールです。
コンクールの概要
当時、フィレンツェの中心部では、1296年から始まっていたサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の工事が進行中でした。その向かいに建つ洗礼堂[図1]は1059年に献堂式が挙げられた後、12世紀半ばにかけて、その外壁が白と緑の大理石で飾られていきました。ダンテも『神曲』(地獄篇第19歌)において、「わが美しきサン・ジョヴァンニ」と、この建物の美しさを讃えています。
洗礼堂には3つの扉がありますが[図2]、最初にブロンズの浮彫装飾が施されたのは、大聖堂に面している正面(東門)の扉です。

[図2]サン・ジョヴァンニ洗礼堂の平面図(右)
それは毛織物商組合から1330年にアンドレア・ピサーノに委嘱され、彼は「洗礼者ヨハネ伝」連作を中心に28枚のパネルからなる浮彫を1338年に完成させました[図3, 4]。

[図4]アンドレア・ピサーノ 《キリストの洗礼》 1330-38年 フィレンツェ大聖堂付属美術館(右)
そこで毛織物商組合は残り2つの扉の内、北側の門扉装飾の制作者を決めるためのコンクールを1401年に実施したのです。
そのときの課題条件は、現存する作品から推察するに、おおよそ以下の通りであったと思われます。
(1)主題:「イサクの犠牲」(『創世記』22:1-19)
(2)枠組の形とサイズ:長方形(約45x38cm)内に四弁形
(3)技法:ブロンズ鋳造法
(2)と(3)については、アンドレア・ピサーノの門扉装飾と共通するので、既存の扉と統一をはかるために設定された条件だったということでしょう。
こうした課題のもと、ロレンツォ・ギベルティ、フィリッポ・ブルネレスキ、ヤコポ・デッラ・クエルチャ、シモーネ・ダ・コッレ、フランチェスコ・ディ・ヴァルダンブリーノ、ニッコロ・ディ・ピエトロ・ランベルティ、ニッコロ・ディ・ルーカ・スピネッリの計7名が応募したとされますが、そのうちギベルティとブルネレスキの作品のみが現存しています。
主題の内容
課題として指定された「イサクの犠牲」については、中世美術でもしばしば取り上げられた主題であり、本コラムでも第15回で触れましたが、その内容を簡単にまとめておきましょう。
神から多くの国民の父になることを約束されていたアブラハムでしたが、妻サラとの間には子供がいませんでした。ところがある暑い日、この老夫婦を訪れた3人の男たちのうちのひとりが、サラに男の子が生まれると予告し、その言葉通り、1年後、100歳のアブラハムに息子イサクが誕生したのです。
しかしながらその数年後、神はアブラハムに命じました。
あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい(『創世記』22:2)。
それはきわめて残酷なお告げでしたが、アブラハムは神の命に従って、翌日、息子とふたりの若者とともにロバでモリヤへ向かったのです。そして3日後、目的地近くまでやって来た時、アブラハムは若者たちにロバと共に待機しているように告げ、薪を背負わせたイサクを連れて、目的地に向けて進んでいきました。
ようやく、神に命じられた場所に着くと、アブラハムは祭壇を築き、薪を並べ、その上に縛ったイサクを乗せたのです。そして刃物で息子をまさに殺そうとした時、天の御使いがアブラハムに言いました。
その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった(『創世記』22:12)
愛する息子を殺さずにすんだアブラハムはさぞかし安堵したことでしょう。ですが息子の代わりになる何かを神にささげなければならないと考えた彼は、あたりを見回したところ、木の茂みに一匹の雄羊を見つけました。そしてそれを全焼の生贄としたのです。
この主題が課題作として選ばれた理由を、ヴァザーリは『美術家列伝』(1568年)で次のように説明しています。
それはこの場面が風景、裸体像、着衣像、動物を含み、前景は高浮彫、中景は浮彫、後景は低浮彫で表すべきものなので、技術上の困難さということに関して工匠たちがその腕を示すことができるに違いないと役員たちが考えたからである(訳:芳野明)。
最終審査まで残った2点の作品から推察するに、主催者である毛織物商組合は、アブラハム、イサク、ふたりの若者、雄羊、ロバ、祭壇といったモティーフをすべて表すことを指示していたように思われます。
ギベルティの試み
では、この課題に対して、ギベルティはどのように向かい合ったのでしょうか[図5]。全体の構図から見ていくと、彼は主役(アブラハム、イサク、天使、羊)と脇役(若者、ロバ)を崖の斜めの線で分けていることに気づきます[図6]。

[図6]ギベルティの作品の基本構図(右)
ですがこの崖は、登場人物を分断するわけではなく、むしろ本主題におけるエピソードの展開をスムーズにしているのです。
左下の画面外側から、モリヤへやってきたアブラハムは、崖の下でイサクをロバから降ろし、そこに若者たちを待機させます。そして彼は息子を連れて山を登っていき、祭壇上で神からの命令を実行しようとします。ですがその行為は天使によって止められ、その代わりに犠牲となる雄羊は山頂に置かれています。このようにギベルティは鑑者の視線を、左下から右中程、そして左上へと導いているのです[図7]。それは山の特徴を生かした見事な構図と言えるでしょう。

主場面[図8]に目を向けると、弓なりになったアブラハムのポーズ、息子の顔を凝視する視線、振り上げられた右腕、風に舞うマントはいずれも、この場の緊張感を高めています。

一方、首をひねって父に視線を向けるイサクの肉体は解剖学的に正確であるばかりではなく、古代彫刻のように美しく仕上げられています。そして天使は上半身を前方に突き出し、親子の間に割って入ろうとしているのです。これら主役の3者に見られる形態の美しさは、本作品における注目すべき特徴と言えるでしょう。
ブルネレスキの挑戦
それに対して、ブルネレスキは画面を上下に分け、主役を上方に、脇役を下方に置いています[図9, 10]。

[図10]ブルネレスキの作品の基本構図(右)
しかしながらよく見ると、祭壇の底部はロバの背中で隠れているので、脇役たちがいる場所は画面の下というよりも手前、すなわち前景であることがわかります。このことは、左の若者がフレームから大きくはみ出していることや、もうひとりの若者が上半身をこちら側に向けて前屈していることからも明らかです。
つまり鑑者は、彼らを介して主場面へと視線を向けることになり、画面内に明確な奥行きを感知することができるのです[図11]。

とはいえ前景から中景に向けて、物語が進展していくというようには見えません。つまりギベルティと比べると、3次元的な空間は創出されていますが、物語の連続性はあまり感じ取れないのです。
では主場面[図12]はどのように表現されているのでしょうか。

アブラハムは前かがみになりながら左手でイサクの首を押さえつけ、右手の短剣の先端部はもはや息子の喉にあたっているようです。一方、両手を縛られた息子は苦しそうな表情を浮かべ、父親から逃れようと両足のかかとを祭壇から浮かせています。そこに勢いよく飛来した天使は、アブラハムの右腕を強く握りしめ、これ以上、剣が動かないようにしているのです。
これら3者のしぐさや形態には、ギベルティの浮彫のような優美さは認められませんが、その代わりに本場面の迫真性がひしひしと伝わってきます。「イサクの犠牲」は紀元前2000年頃、エルサレムの周辺のモリヤで起きたとされるので、この作品が制作された時代のフィレンツェの人々にとっては、3400年も前に2500キロほど東の地域で生じた出来事です。そのような主題を、ブルネレスキは自分たちの目の前で繰り広げられているかのように示しているのです。
コンクールの結果
最終審査まで残ったギベルティとブルネレスキの作品。あなたが審査員であれば、どちらを選びますか。これら2点の浮彫は現在、フィレンツェのバルジェッロ国立美術館に並べて展示されているので、ぜひ実物をご自分の目で見て、あなたの結論を出してみてください。

毛織物商組合は1403年6月23日に北門扉装飾に関する契約をロレンツォ・ギベルティと交わしているので、本コンクールの勝者はギベルティということになります。しかしながら審査の経緯に関しては、2つの異なる記録が残っています。ひとつはギベルティ自身が1450年頃に記した『 Commentari(回想録)』です。そこには、自分の作品の方が優れていたため、ブルネレスキが辞退したと書かれています。もうひとつはアントーニオ・マネッティが15世紀後半に著した『Vita di Filippo Brunelleschi(ブルネレスキの生涯)』です。それによると、毛織物商組合は両者による共同制作を提案したけれども、ブルネレスキがその案を拒んで辞退したということです。
果たしてどちらの記述が正しいのかはわかりませんが、これまで見てきたように、どちらの作品にもそれぞれ優れている点はあるため、一者を選ぶのはとても困難であったことが想像できます。それにギベルティは自分に都合のいいように書き残した可能性もあるので、マネッティの記述の方が信憑性はあるのかもしれません。
コンクール後の活動
勝者となったギベルティは1403年から1424 年という20年以上もの年月をかけて、28のパネルからなる門扉[図13]を制作し、総額約2万2千フィオリーノもの報酬(材料費、制作費、諸経費などを含む)を得たそうです。

1フィオリーノ金貨は約3.5グラムのほぼ純金からなるので、およそ75キロの金に相応する大金を手にしたことになります。
果たしてギベルティはこの高額の報酬に値する仕事をしたのでしょうか。彼が制作したパネルには、福音書に基づいた「キリスト伝」連作が表されています。そのひとつである《受胎告知》[図14]を見てみましょう。

[図5]再掲(右)
そこには神、大天使ガブリエル、マリア、マリアの家のみが表されたきわめてシンプルな作品です。それは人物像の優美な形態という点ではコンクールの出品作[図5]と通じるものがありますが、全体の質に関しては明らかに劣っています。
ギベルティはコンクールの時ほど、情熱をもって仕事を進めなかったのではないでしょうか。実際、彼は門扉装飾の仕事に集中していないことや、制作の遅延などのため、毛織物商組合から何度か注意や督促を受けています。ギベルティに限ったことではありませんが、ハングリーな気持ちこそが、質の高い成果を生み出すということでしょう。
一方、コンクールに敗れたブルネレスキはその後、ローマに赴き、古代の建築や彫刻を学んだようです。何かにつまずいた若者が、それをバネにして大きく成長することも珍しいことではありません。彼はフィレンツェに帰国後、その研究成果を思う存分、発揮することになるのですが、それについては次回、お話しすることにしましょう。
