われわれは普段、欲求のままに動くのではなく、善悪の判断をし、それに基づいて行動しています。こうした性質と能力(=道徳性)は他の動物には見られず、ヒトという生き物に固有の特徴だと言われますが、ではなぜヒトは道徳性をもつようになったのでしょう。
道徳の問題は、古くから倫理学の分野でさまざまな形で議論されてきましたが、20世紀終盤からは、「進化倫理学」という新しい学問をめぐって活発な議論が展開されています。進化倫理学とは、チャールズ・ダーウィン(1809~1882年)から始まる進化生物学に基づいて道徳を研究する学問で、その土台となっているのは「進化心理学」です。
進化心理学は、「われわれの体の仕組みが進化における適応によって形づくられたように、目に見えず形を持たない心にも、進化を通じて形成された基本デザインがある」との考え方に立って、その基本デザインとしてヒトに備わっている具体的な心の働きや行動パターンを研究する学問です。そこで扱われる研究テーマは認知や言語、感情、性行動など多岐にわたりますが、そのなかから重要な領域として「人間の道徳性」に焦点を当てた研究が進み、1980年代以降、進化倫理学と呼ばれて発展しました。
そもそも進化論を提唱したダーウィン自身、「人間の心の様相にも進化における適応が関係している」と考え、人間の道徳性についての検討をしています。例えば、同じような規模の二つの集団が争った場合、道徳心が強い者が多い集団の方がそうでない集団よりも団結して戦うので強いと考えられます。そのため、時間の経過と共に、後者の集団が前者の集団に淘汰され、道徳心が強い者の集団が残っていくことで、(その末裔である)ヒトには道徳心が備わったとダーウィンは考えました(群淘汰説)。この考え方自体には、その後さまざまな問題点が指摘されていますが、その根底にある「ヒトの心のありように進化的な適応が影響している」という視点から議論と研究が積み重ねられて、進化心理学、さらに進化倫理学へとつながったのです。
「他人のため」は「自分のため」
進化倫理学の土台は進化心理学だと言いましたが、中でも道徳を考える上で基盤になった進化心理学の基本理論は、「血縁淘汰理論」、「互恵的利他行動の理論」、「間接互恵理論」の三つです。
一つ目の「血縁淘汰理論」とは、自分の子どもや兄弟姉妹、孫といった血縁者に対して利他行動を行う性質が、進化的な適応によってヒトに備わったことを説明する理論で、進化生物学者のウィリアム・D・ハミルトン(1936~2000年)によって1960年代に提唱されました。手間とお金をかけて自分の子どもの衣食住の世話をし、より良い教育を受けさせ、病気や怪我から守ることは、一見自分を犠牲にして相手の利益のために尽くす利他行為に映ります。しかし、子どもを無事に育て、さらにその子が子どもを作れるようになって孫を授かることは、自分の遺伝子を残すという「自分の(適応上の)利益」になるのです。同じように兄弟姉妹や孫を助けることも、外形的には「自分のお金や労力を相手のために使う」利他行為に見えますが、遺伝子の観点で見れば、それによって自分の遺伝子を残す確率を高める「自分の(適応上の)利益のため」の行為と言えます。こうした適応上の利益がそこにあるがゆえに、人間の心には血縁者に対して利他行動をしようとする性質が進化を通じて備わったと考えられます。
二つ目の「互恵的利他行動の理論」とは、血縁関係のない友人や同僚、近所の人などを助ける「利他行動」も自分の利益につながることを説明するもので、1971年に進化生物学者のロバート・トリヴァース(1943年~)によって提唱されました。われわれ人間は集団生活をしていますので、同じ相手と顔を合わせる機会が頻繁に生じます。そうした中で、たとえば一緒に食事した友人が財布を忘れたら代金を立て替えてあげる、会社の同僚が残業をしていたら自分も残って手伝う、といった「相手のための行為」をして、別の機会に相手から同様の行為のお返しを受けると、そういうやりとりをしない場合よりも自分も相手もプラスになります。そこから、血縁がない相手に対しても(特に継続的な付き合いがある「近しい人」に)「相手のため」の行動をしようとする性質が――「自分の遺伝子を残す」という自分の適応上の利益につながる性質として――進化の中で人間に備わったというのがこの理論の内容です。
これに対して、三つ目の間接互恵理論は、「相手のため」になる行為を、普段付き合いのない第三者や「赤の他人」に対して行うことも実は自分の利益になることを示し、そうした行動が進化や適応の観点で説明できることを明らかにした理論です。たとえば、通りすがりの人に道を聞かれたら教えてあげる、電車の中で年配者に席を譲る、チャリティに寄付をするなどの行為を積極的に行う「親切さ」を持ち、そういう行為を実際に普段からやっていると、日常生活の中でそれが周囲の人に知られて「あの人はいい人だ」という評判が広がります。周りの人からすると、そういう「いい人」と付き合えばその親切さが自分に向けられて自分が助けてもらえる可能性が高いので、多くの人は――親切でない「嫌な奴」を避けて――「いい人」に近づき、付き合いを持とうとするでしょう。つまり、「いい人」は、周囲の人から好かれてお付き合いができる可能性が高まり、するとそこでの互恵関係を通じて(自分が困ったときには周囲の人から助けてもらえるなどの)利益を得られる可能性が高まります。このように、自分が他人に行った利他行動の「お返し」がその相手から直接返ってこなくても、その利他行動によって「いい人」という「評判の利益」を得ることで、周囲の第三者との互恵関係が広がるという形で間接的なリターンが得られることを示したのが「間接互恵の理論」です。
これらの理論を通じて、人間が利他的な性質を持ち、利他行動をとることが、進化や適応の観点から説明されることになり、そこからさらに人間が道徳性を持つことについても進化や適応の観点から考察・説明しようとするさまざまな研究が出てきて、進化倫理学が生まれたのです。
道徳は適応的利益に基づく
進化倫理学における先駆者は、哲学者のマイケル・ルース(1940~2024年)と進化生物学者のリチャード・アレグサンダー(1929~2018年)です。この2人の理論は、同じように血縁淘汰理論や互恵の理論を通じて進化の観点から道徳を考察するものですが、正確にはその中身は異なっています。現在の進化倫理学の研究は、このうちルースの理論をベースとするものが多いように思います。
「人間の心には、幾世代にもわたる進化を通じて道徳のもとになる『道徳感覚』が生得的に備わるようになった。なぜなら、そういう感覚をもっているほうが『適応的利益』(自分が生存・繁殖する上での利益)を享受する可能性が高まるから」というのがルースの基本的な考え方です。ここでの「道徳感覚」とは、「自分の子どもの世話をしよう」「以前にあの人に助けてもらったから今度は私があの人を助けてあげたい」といった意欲や欲求を超えて、「親は子どもを養育すべし」、「恩を受けたときにはお返しをすべし」という規範的・義務的な意識を伴う感覚を指します。そういう義務的な感覚を備えていると、それを持たずに単に意欲や欲求に基づいて子育てや「助け合い」をするよりも、より強い意志を持って――その時々の怠け心などに打ち勝って――子育てや「助け合い」をすることができて、適応的利益を確実に得ることができます。すなわち、「道徳感覚」を備えることにはヒトにとって適応上プラスの効果があり、そのために人間は、進化を通じた生物学的・生得的な性質として、道徳的義務意識を伴う「道徳感覚」を備えたというのがルースの説になります。
われわれの社会の道徳の中身は、時代や文化によって多様ですし、また、われわれは自分や他人の行動について道徳的に「どうすべきか」「何が善で何が悪か」を理性的に判断しようとしますが、その大元には、進化を通じてすべての人間に備わった共通の「道徳感覚」があり、それが多様な道徳規則、さまざまな道徳判断の根本的な土台になっている、と主張するところが、この考え方の大きな特徴です。
ルースは2024年に他界しましたが、その考え方を発展させて、シャロン・ストリート(1971~)、リチャード・ジョイス(1966~)がそれぞれ2006年に「進化的暴露論証」を提唱しました。従来の倫理学(メタ倫理学)では、道徳とは、各人の心や感情とは独立して、この世界に真理として実在するもので、それを人間が理性を通じて認知するという「道徳実在論」が強い影響力を持ってきました。これに対して、道徳の基盤は、進化を通じて「適応」として人間の心に形成された「道徳感覚」にあるというのがここでの考え方ですから、実在する道徳的真理が道徳の基だという考え方は否定されます。ストリートとジョイスは、こうして道徳実在論を強く批判し、メタ倫理学での論争を巻き起こしました。
「生まれつきの道徳性」への異論
これに対して、ルースとは「似て非なる」形で「進化と道徳」の関係を分析したのがリチャード・アレグザンダーです。アレグザンダーは、進化生物学的な視点に基づいて人間社会の構造を分析し、先に挙げた「間接互恵の理論」を提唱した人です。アレグザンダーも、血縁者を助けようとしたり、関係ある他者と互恵に基づく協調関係を結ぼうとしたりする意欲・欲求的な性向が、進化の中で人間に生得的にもたらされたことは肯定しています。しかし、ルースと違って、「血縁者を助けるべし」「他人に何かをしてもらったらお返しすべし」といった義務的感覚が生まれながら備わっている、とまでは言いません。
子どもは「嘘をついてはいけない」といった善悪の規範を両親や先生などから「教育」されて身につける、とアレグザンダーは言います。つまり、「べし/べからず」を含んだ道徳的な規範は、個々人が生まれ育つ中で、そこでの経験を通じて後天的に身に付けるものと考えたのです。そのため、各人が持つ道徳的・規範的な感覚の中身は、その人がいる社会の環境がどのような時代や文化に属するかによって多様になります。それはその人がそこで教育されることや経験することの中身が違うからで、江戸時代の人は、江戸時代の社会状況や生活慣行に基づく教育と経験から江戸時代の道徳規範を身につけますし、昭和時代の人、令和時代の人も、同じようにしてその時代の道徳規範を身につけます。同様に、フランスの人、パキスタンの人、イスラエルの人は、それぞれの国の文化や社会制度の下での経験から、それぞれの道徳規範を身に付けることでしょう。
このように、道徳規範の中身は多様ですが、そこで教えられている善悪に共通する本質はなにかというと、それは「その人がその社会で生きていく(生存・繁殖していく)上での利益確保のセオリー」になっている、というのがアレグザンダーの考えです。
先に挙げた血縁淘汰理論や互恵的利他行動の理論、そしてアレグザンダー自身が提唱した間接互恵理論は、そういう中で、人間が進化の中で備えた普遍的な性質とそれに依拠して成立する普遍的な社会構造を踏まえて、「血縁者を助ける」「友人や隣人と助けあう」「(見知らぬ人を含めて)他人に親切にする」ことが、どの社会の中にあっても自分が利益を確保して生存・繁殖していくための「共通の基本的方法」になる、ということを示すものだと言えます。道徳の中身は教えられるものであり、そして教える人も教えられる人もこのことを明確には意識していませんが、そこで教え/教えられていることの中身は、善悪という観念を用いた「人間社会での利益確保のセオリー」であるというのがアレグザンダーの主張のポイントです。ルースのように「生得的な道徳感覚の進化」を主張するものではないですが、進化や適応の観点に基づいて人間の性質や社会の構造を分析することによって「道徳の本質的意味」を探った試みとして、アレグザンダーの研究を私は高く評価しています。
「利益確保のセオリー」のわかりやすい例を、間接互恵で考えてみましょう。たとえばあなたが何かのお店を開いたとします。このとき、来店するお客さんが商品を買ってくれても買ってくれなくても、一人一人丁寧に対応し、サービスに努めれば、好印象をもってもらえるはずです。「あの店の店主は親切だ」、「あの店はサービスがいい」と口コミで評判が広がり、それがお客さんを呼ぶことにつながって、店や自分にとっての利益となって返ってきます。つまり、他人に親切にすることは長い目で見て自分の利益につながるので、自分が利益を得るには、そのための基本セオリーとして「人に親切にすべき」なのです。
お店に限らず個々人の日常生活においても、周囲の人に普段から親切にしていれば、自分が「利他的な性質」をもっていることを「宣伝」できて「評判の利益」が得られます。評判の利益を確実に得るためには、相手や場面によらず原則としてすべての他者に親切にふるまう必要がありますが、自分の利益のことばかりを意識しすぎると、人目のあるところでだけ利他行動をすればいい、ということになりかねません。しかし、「人に見られないところでは自分本位に振舞うが、人目のあるところでは利他的に振舞う」という行動パターンから示されるのは、自分が「親切で利他的である」というシグナルではなく「自分の利益を計算して行動する」という利己性のシグナルです。
もちろん、「人に見られないところでは自分本位に振舞っている」ことが文字通り人に見られず、誰にも知られないならば、「利他的に振舞う」ことだけが他人に知られて自分を「善い人」に見せることができます。しかし、そんなに「甘くない」のが世の常で、誰にも知られないと思っていた自分の振舞いが思わぬ形で人に知られることはわれわれの多くがしばしば経験するところでしょう。そうなってしまって、「この人は計算高く自分の利益に向けて振舞う人だ」というシグナルが周囲に伝わってしまうのは、その後の周囲との関係に決定的な悪影響を及ぼす「重大事」です。
だからこそ、そのように「自分を善い人に見せる」ための目先の計算が働かないよう、利他的な行動が自分の利益につながるという事実を無意識の領域に押しとどめて、「嘘をつくべからず」「他人の物を盗るべからず」というセオリーだけを「守るべき道徳」として人間は身に付けるのだというのがアレグザンダーの見方です。先に述べたように、進化倫理学の分野ではルースの理論に基づく研究や議論が活発ですが、最近は、こうしたアレグザンダーの考えに基づいてそれを発展させる研究もでてきています。
善悪と損得
道徳の「基」は理性か感情か、という問題は、哲学者や倫理学者の間でさまざまな形で議論されてきました。ルースの「道徳感覚」論は、それで言うと後者の側に相当します。しかし、ルースが唱えるように人間共通の(規範意識を伴った)「道徳感覚」をわれわれが生まれながらに持ち合わせているという考え方には、私は疑問を覚えます。先ほども触れたように、国や地域、時代によって、道徳の在り方は変わってくるからです。「善/悪」「べし/べからず」という規範的な概念を用いて自分や他人の行動を評価する能力自体は進化によって人間に備わったものだと思いますが、善悪や「べし/べからず」の中身は生物学的に備わったのではなく、文化や環境に応じて人間が後天的に身に付けるものだろうと私は思っています。その点で、ルースよりもアレグザンダーの説の方に私は共感します。
その一方で、人間にとってそれが生得的か後天的かはさておき、道徳には、人間が生存・繁殖していく上での利害損得が関わっており、それが道徳の根本的な土台になっているという考え方は、ルースにもアレグザンダーにも共通です。つまり、道徳や善悪の奥にある本質を利害損得に見出し、利益に基礎づけて道徳を分析・検討するのが進化倫理学のエッセンスだと言えるでしょう。
このように言うと、「道徳や善悪と損得利害は別の次元の話ではないのか?」と思われるかもしれません。善悪というのは、われわれの主観的な気持ちや感情とは独立して、客観的・絶対的な真理として成立しているのだ、と考える人もいるでしょう。ルースのところで触れたメタ倫理学の道徳実在論はまさにそういう考え方ですが、ストリートとジョイスの「進化的暴露論証」が道徳実在論を否定したことに表れているように、これらを「別次元」と捉える考え方に反対して、道徳や善悪の「基」を「適応的利益」という利害損得に見出すところに進化倫理学の特徴があります。
われわれは日々忙しく暮らしていますので、普段の生活では、自分が考える善悪の基準や道徳観の大元について考える機会は少ないと思います。しかし、道徳と利益との関係を深く考え、理解することで、なんとなく疑問に思っていた道徳や善悪に関する「なぜ」「どうして」にすっきりした答えが見つかり、強い意識で道徳的な行動ができるようになったり、自分とは異なる国や文化の人の道徳観や善悪の意識に対して理解が進んだりするかもしれません。社会生活の中で自分が利益を着実に確保して生きていくために、道徳の活用を考えてみてください。
構成:浅野恵子

